◆勝議部便り
 文責・ヴァジラチッタ・ヴァンギーサ正悟師


「言葉の定義を押さえた教学を」



 先日「インターネットオウム真理教」において「四十八時間掲示板」という企画が行なわれた。一般の人に自由な書き込みを行なってもらうこの「掲示板」では、一般の人からのオウム真理教に対する疑問・質問が相次いだ。
 そうした疑問・質問の中に、次のようなものがあった。

「解脱したいというのも欲望ではないか」
「多くの人々に高い世界に至ってほしい、幸福になってほしいと思うことも欲望ではないか」
 この質問に対してほとんどの答えは、
「一つの目標に向かうとき、欲望というのは用いられる。しかし、そうした欲望は到達した時点で消え去るのです」
と言って、「アメリカに到達したら……」とか「欲の船に乗って欲を滅する」といった説法を引用していた。
 しかし、これでは不十分なのである。というのは、ここには「欲望とは何か」という根本的な問いかけが欠如しているからである。
 麻原彰晃尊師の次の説法を思い出していただきたい。


 ところが、そうではなくて、ね、例えば、六時間、七時間、八時間の惰眠を貪る。ね。例えば、否定的なことを言って、実際にワークに集中しない。ね。あるいは、独房の中でも寝てばかしいる。それだと逆に意志の力というものは、ね、念というものは……ここで念というのは、高い世界へ導く意志の力を念と言います。そして、行というのは、低い世界へ導く、煩悩の世界へ導く意志の力を行と言うわけだけど……念というものはどんどん低下し、行の働きが強くなる。そして、念の働きが強くなれば成就する。行の働きが強くなれば三悪趣に生まれ変わる。ね。
(八八年十月五日 富士山総本部)

(質問者)一番早い解脱するための方法は五蘊を滅することと言われたんですけれども、四番目に来る、欲求を滅するって言われたんですけれども、わたしたちの場合一日も早く、こう悟り・解脱をしたいというものすごく大きい欲求あるんですけれども。
(尊師)それは先程も言ったとおり、欲求ではないね。つまり欲求をわたしは「行」という言葉を使ってるよね。それは解脱をしたい気持ちっていうのは「念」です、それは。「念」は持たなければならない。欲求は持ってはいけないと。いいかな。
(質問者)意識的にその解脱を望んでもいけない‥…。
(尊師)意識的に、だから解脱を望んではいいわけだ。それは「念」だからと。「念」は持たなければならない。しかし「行」を持ってはいけないと。じゃ、もっと言い方を換えるならば、高い世界へ到達する思いというものを「念」というふうに置き換えることができよう。そして、この現象界で満足させる心の働き、これを「行」というふうに言い換えることもできる。いいかな。
(八八年三月十九日 富士山総本部)

 このように、この質問の場合、まず「欲望とは何か。欲望には行と念がある」ということを呈示し、次に「高い世界と低い世界」について説明し、最後に「念にしても到達すれば消えるものですよ」と持ってくれば、相手は理解しやすくなるのである。
 ところが、残念ながら「四十八時間掲示板」において、「行と念」について書いた回答はわたし以外には存在しなかった。そのわたしの書き込みも、早い時期になされたため、次々と書き込まれるメールによって隅の方に追いやられ、なかなか顧みられることがないという有り様であった。

 こうしたわかりにくい回答をしてしまう背景には、「言葉の定義」という視点が欠如しているように思えてならない。オウム真理教の教義体系の特徴は、言葉の定義がはっきりしており、その上に教義が構築されていることである。
 わたしは今年四月から、信徒さんに対して、「真理とは、善悪とは、救済とは……」といった基本的な言葉を押さえる説法を繰り返している。というのは、「言葉の定義」を明確にすることこそ、教学の要だと思うからである。

 もう一度、一つ一つ言葉の定義について検討し、自分の中で教義を整理し、教学の土台を固めてもらいたい。そして、「この言葉はどのようなものか」ということをつかんでいなければ、決して真理というものを理解したことにはならないし、さらにまた、真理にのっとって考え行動することなど不可能なのだということを、しっかりと認識してもらいたいと思う。


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