<覚醒の世紀へ>


第1回 臨死体験と仏教(前編)


◆死の準備
  「このまま眠ったら、そのまま呼吸が止まって死んでしまったりしないだろうか」
 小さいころ、ベッドの中でこんな「死の恐怖」に駆られた経験があるという人が、意外と多い。それは大人になってからも、突発的に起こるようだ。
 「死んだらわたしはどうなるんだろうか。わたしは完全に消滅してしまうんだろうか。それとも魂のようなものは残るんだろうか。もしかすると、真っ暗闇の中を永遠にさまよい続けるのかもしれない。わたしはあと何年生きられるのだろうか。いや、どれだけ長生きしても、結局死ぬんだ。こうしている今も、わたしは一歩一歩死に近づいている……」
 寝入りばなに、ひとたびこんなことを考え始めてしまうと、居ても立ってもいられなくなる。心臓は高鳴り、呼吸は荒くなり、ベッドの中に深く潜り込んだり、我慢できず照明をつけてみたり。
 −−きっとあなたも、このような恐怖を体験したことがあるのではないだろうか。

 わたしたちは今生真理に巡り合い、死後の世界の真実、そして死を乗り越える方法を知ることができた。だが、もちろん知っているだけでは意味がない。人はいつ死ぬかわからないからだ。それゆえ仏教では、「死に対して絶えず“準備”をしなさい」と説いている。
 米ソの協調があるにしろ、ないにしろ、あるいは、核戦争があるにしろ、ないにしろ、わたしたちが考えなければならないことは、わたしたちは老いるものである、病むものである、そして、死ぬものであるということを考えなければなりません。そして、核戦争は、そのわたしたちの病と死に、大きな関係があります。もし、核戦争が発生すれば、わたしたちの病は当然放射能によって増大しますし、また死期も早めることになります。しかし、核戦争がないとしても、死は、そして病は当然存在します。ですから、核戦争の有無にかかわらず、病の準備、あるいは死の準備というものはしておく必要があるわけです。そして、そのために、善の修行、徳の修行、寂止の修行、そして、真理の法則の実践といった、この四つの段階の修行をなすならば、皆さんの病、そして死に対しての防御は完壁ということになります。そして、これは当然、同じように核戦争に対しての防御も完壁ということになるでしょう。

      (「特別教学システム」第一課 質疑応答)

 これまで尊師が説法の中で「死の準備」として挙げてこられた内容には、善にのっとった修行や功徳にのっとった修行、戒律を守ること、現世的な執着を切ること、瞑想を確定させ、実際にバルドを経験すること、そして四無量心の瞑想・実践による心の成熟などがある。
 ところで、この中のいくつかとよく似た価値観を、他人から教えられるのではなく、自然と持つようになった人たちがいる。それが臨死体験者だ。


●ある臨死体験者の内的変化

「臨死体験」というと、マスコミの興味本位の取り上げ方も影響して「体外離脱」や「トンネル体験」などの超常的体験を真っ先に連想する人がほとんどかもしれない。だが、これらとは別にもう一つ見落とすことのできない変化が臨死体験者たちの内側で生じている。それは、臨死体験者の意識あるいは価値観といったものの著しい変化である。
 次に挙げるのは、ハワード・ストームというノーザン・ケンタッキー大学の主任教授をしていた画家の例である。

 そのころ私は、完全な物質主義者で、無神論者でした。神とか、魂とか、そういうものは一切信じていませんでした。非科学的なものは一切認めませんでした。
……私の望みは現世的な成功でした。……経済的にも成功し、大金持ちになり、社会的地位を持って大きな社会的影響力を持ちたい。……そしてそれなりの成功をおさめ、立派な家に住み、高級車を持ち、賛沢な暮らしをし、酒、美食、女などの快楽におぼれていました。
 
             (立花隆『臨死体験』)

 この人物は、臨死体験の後、価値観が全く変わってしまったという。

 ハワード・ストームは、この体験によって全く別の人格になってしまった。彼の人生観、世界観はすべてひっくり返ってしまった。人生の生き方も変わった。世俗的な快楽、富、成功など彼がもっぱら追求していたものには目もくれず、……もっぱら善なるものを追究し、あらゆる意味で人を助け、社会に奉仕することに自分の人生を捧げるというほとんど聖者のような人間になってしまったのである。
 かつて読みふけっていた卑俗な読物には手もふれず、今や哲学や神学の本を読みふけるようになった。妻は『私が結婚した相手のハワードはパリで死んでしまった』と言い、この変化を必ずしも喜んではいない。子供や友人も、『ばかなことをしている』と冷たく見守っている人が多い。しかし、ストームは、世間にかまわず、どんどん我が道を進み、ついに神学校に進み、牧師になろうとしている。
 
     (立花隆『臨死体験』)

 これは特殊な例ではない。例えば、米国の元ヘビー級チャンピオンのジョージ・フォアマンは、臨死体験の後に牧師となり、教会を建てている。


◆ケネス・リング教授の研究

 コネチカット大学のケネス・リング教授は、臨死体験者の意識の変化に焦点を当てて様々な角度から調査を行なってきた。その結果を見ると、臨死体験者の意識の変化には、ある特定の傾向が見えてくる。
 まず宗教意識の変化には、主だったものとして「宗教的信仰とは無関係に死後の生があることを確信するようになる」「輪廻転生という考え方にも偏見を持たないようになる。東洋の宗教に対して全般的にシンパシー(共感)を感じるようになる」などの項目が挙げられている。
 また、ケネス・リング教授は宗教観の変化だけではなく、もっと広く、人生観・世界観・価値観がどう変化したかも調査している。その結果、体験者の多くに、他人に対する気持ちが良い方向に変化(他人を理解し、受容し、助けようとする心が増大)したという変化が現われている。これは先程のハワード・ストームの例がまさに典型である。他を助けようという行ないは仏教でいう善行、善にのっとった修行に当たるだろう。
 そして、もう一つ顕著な傾向として現われているのが、物質的欲望の否定である。「生活の物質的側面に関する関心」については、調査対象の四六・二パーセントが「激減」、二六・九パーセントが「減少」したと回答したのに対し、増加はゼロだった。これとは対照的に、「人生に意義と意味を求めたいという気持ち」が強くなり、「高次の意識を獲得したいという欲求」については「激増」が八〇パーセント以上となっている。


◆人は臨死体験で何を悟るのか

 死を自覚することは人生の意味を問い直させ、人生で重要なことは何かを考えさせる。それは修行者も一般の人も同じだ。臨死体験を経た者が、物質欲などの煩悩的な欲求が激減し、逆に利他心に基づく行ないに価値を見いだすようになったというのは興味深い。人は臨死体験によって、真理の断片を垣間見るのだろうか。いずれにせよ、臨死体験者たち(の一部)は死というものを前提とした生き方をし、ある意味で死に対する準備を始めていると言えるのかもしれない。
 しかし、現代人のほとんどは、死について何ら準備することなく死を迎える。その人々も、実際に死んだとき、臨死体験者と同じ価値観の変化が起きるのだろう。だが、そのときにはもう遅いのだ。今、この瞬間にも、一体どれだけの魂がバルドの深淵から悲痛に満ちた後悔の叫びを上げているのだろうか……。
 あなたは悔いのない死を迎えることができるだろうか。
     (後編に続く)