忍び寄る老い


ここに集う愛する友よ
若くて元気がよいときは、
老年が来ることなど考えもしないが、
老いは、地の下で育つ種のように
ゆっくりと確実に近づいてくる。

強くて健康なときは、
病がやってくることなど思いもしないが、
病は稲妻の一撃のように、突然、降りてくる。
俗世のことに関わっているときは、
決して死が近づくことを思わない。
死は、雷のように素早くやってきて、
頭の周りでとどろく。

『ミラレーパの十万歌』


厭わしいことだ、哀れな老いよ。
ものを醜くする老いよ。
あれだけ心を喜ばせる影像も。

老いによって打ち砕かれる。
たとえ百歳生きるとも、彼は死に至るのだ。
いかなるものでも避けられず、
すべてのものを打ち砕くだけなのだ。
    (仏典『潜在性に関連づけられた経典』(第五 老品))


朽ちることのない真実を悟らない限り、
老いの不幸は免れ得ない。
老いても法則を無視する者は、
カルマに縛られていると知らなくてはならない。
まだ息のできるうちに、
聖なる法則を実践することは善いことだ。
(『ミラレーパの十万歌』)


老人が、死の近づいていることを感じるなら、
それは、良い真実の勉強である。
人生は短くはかない、と。
そして、おのずと考えるだろう。
「人生とは、結局悲しい夢である」と。
(『ミラレーパの十万歌』)



◆老いについて

 わたしたちが 「無常」を認識すること、それはわたしたちに大変大きな利益をもたらしてくれます。それは、この世界の本当の姿を理解させてくれるからです。つまり、この世界は苦界である、本質的に苦しみでしかない、ということです。
 迷妄に覆われたわたしたちの目では、なかなかこの世界の真の姿を見抜くことができません。わたしたちの五妙欲をくすぐる数々の幻惑により、わたしたちの視野は狭められ、この世界が「常」−−つまり、ずっと続くものであるかのような錯覚に陥っているのです。
 しかし、わたしたちが心を静め、この世界をしっかりと眺めるならば、「無常」を知らせるサインがあちこちに見られるのです。その一つが「老い」です。
 「老い」は、わたしたちに対して、「あなたは確実に変化していっているんですよ」
「あなたは滅びに至る運命にあるのですよ」「善をなしなさい」「早く気付きなさい」といった、数々のメッセージを投げかけてくれています。この警鐘に真剣に耳を傾けて初めて、マーラの幻惑は破られ、わたしたちの前に真の解放への道が開けることになるのです。

 今回は、「老い」について学んでいくことにします。
 皆さんは、「老い」という言葉を聞いて、どんなイメージを抱くでしょうか。白髪、はげた頭、しわだらけの顔や体、シミ、抜けた歯、曲がった腰、おぼつかない足取り、硬直した体、しわがれた声、五感の衰え、寝たきり、病気がち……こういった肉体上の変化を中心に、老いのイメージができ上がっているかもしれませんね。
 しかし、「老い」には、肉体上の変化だけでなく、精神面での衰えも含まれます。例えば、意志の力が弱ってきたり、記憶力や判断力が衰えてきたり、ひどい場合には痴呆の状態になったり……こういった智性が低下していくことも、「老い」と言えます。
 また、尊師は、「老い」とは部分集合の集積とおっしゃっています。つまり、視力が弱ることは老いであり、耳が遠くなることは老いであり、肢体が弱ることも老いであると。このように一つ一つの機能の衰弱、その集まりをもって全体の「老い」と見なくてはいけないということです。
 このように、老いは高齢になって初めて現われるものではありません。例えば脳細胞は、男性は二十歳、女性は十八歳から十九歳をピークとして、その後はどんどん減少していくことが知られていますし、視力は三十歳ごろから低下するとか、味覚が五十歳ごろから急速に衰えるとかいったように、わたしたちの体の機能を部分的に見た場合、すでに若いうちから老化が始まっていることがわかります。もちろん高齢になればなるほど、体のすべての機能が加速度的に衰えることは間違いありません。
 このように、「老い」は、わたしたちが自覚しようとしまいと、人生の早い段階からわたしたちの背後に忍び寄ってきているのです。


★老い−−自分にはまだ先のこと??

 わたしたちは、若く体も健康でいるとき、自分の老いについてはほとんど考えないのが普通でしょうや老人を見ても、なかなか自分の将来の姿としては認識しにくく、自分とは別個の存在と考えてしまうのかもしれません。
 その原因として、五体の変化が非常にゆっくりとしているため認識しにくいことや、老いの症状が実際に認識できるほどに身に表われるのは、時間的にかなり先のことであると思ってしまうことなどが挙げられるでしょう。
 しかし、よく考えて努ましょう。わたしたちは、すでに20年、30年、40年と生きてきています。この20年、30年、40年を振り返ってみたとき、どうでしょう。感覚的には一瞬のように感じませんか……?ではその“一瞬”を、この人生が終わるまでに、わたしたちはあと何回経験することができるのでしょう。人生80年とした場合、今20歳の人でも、あと3回、その“一瞬”を経験すれば終わりです。今40歳の人であれば、その“一瞬”の感覚をもう一度経験すれば、この人生は終わりなのです。
 老いは、わたしたちの浮かれた心の隙をついて忍び寄り、気付いたときにはあっという間にわたしたちの身体を醜くし、精神から生気を奪い取ってしまいます。
 「老いはすぐそばに来ている」−−この認識を忘れたくないものです。


◆老いを探そう

 わたしたちはともすると、老いを見逃しがらです。したがって、真理の実践を行なっている皆さんは、積極的に老いを見つけ出し、しっかりと観察する訓練をしましょう。ちよっとした心がけの積み重ねが、大きな智慧へと結び付くのです。

(例) ・自分の過去の写真を見てみる、あるいは祖父や祖母に若いころの写真を見せてもらうなどして、過去と現在を比べる。
・老人ホームや病院に行くことがあったら、そこで老人の姿をよく観察する(こういった場所では、特に老いの末期の姿を目の当たりにすることができますので、瞑想には大変役立ちます)。
・電車に乗ったときなど、いろいろな年代の人がいる場合は「若い人」「中年」「老人」といった流れを観察する。



<老いの現状>


◆膨れ上がる老年人口


 現代は「高齢化社会」といわれて久しく、日本における六十五歳以上の人口は、一九九八年二月に二千万人を超え、全人口の約一六パーセントを占めるまでに至っています。そしてその人口は、二〇一三年には三千万人を超え、二〇一五年には三千百八十八万人、全人口の二五パーセントに達すると予測されています。つまり、今から十数年後には、四人に一人が六十五歳以上という、本格的な高齢社会に突入すると見られているのです。
 高齢者の中には、寝たきり・痴呆症・虚弱などで自立した生活ができず、ホームヘルパーによる在宅介護や、病院・老人ホームなどの施設での介護を必要とする人がたくさんいます。九六年度の調査によると、六十五歳以上で、生活のために何らかの介護を必要とする人たちの数は、人口千人当たり八十三人、つまり全人口の十二人に一人(六十五歳以上だけで見ると、実に二人に一人)という高い割合になっています。そして、このような要介護者の数は、二〇二五年には、今の約二倍に膨れ上がると見られています。
 これから先の高齢社会をどのように支えていくのかを考えた場合、介護の問題、医療の問題、経済的な問題、公共団体の老人福祉予算の問題、それに充てる予算確保(税金等)の問題、老人の生き甲斐や社会参加の問題など、難問が山積みです。
 今の日本人が、喜びばかりを追求して、ひたすら徳を消耗し、十悪を積み続ける生活を行なっていることを考えると、わたしたちの老後は、大変厳しいものとなることは間違いないでしょう。
 皆さんは、自分が経験しなくてはならない人生の末期の状態を、どのように考えているでしょうか。なかなか自分の老後について想像することは難しいことと思います。しかし、老後はそれまでに蓄積してきたカルマがはっきりと現われてくる時期であると言えるでしょう。一般の人の場合、この社会で生活する中で蓄積してきたもの、それは三悪趣の要素しかありません。したがって、次の生を目前に控えた人生の末期においては、三悪趣の様相がはっきりと、その人の体・心・環境に現われてくるのです。

★★★
 現代人を観察すると、現代人の構成しているものは何か。まず「嫌悪」であると。ただ自分だけ良ければいいと考える。次に「無智」、今さえ良ければいいと考える。次に「貪り」。自分だけ独占したいと考える。次に「性欲の興奮」、とにかく異性を見たらセックスの対象と思え、という修習をする。そして「闘争」、とにかく権力を得るためには手段を選ばないでいいんだと考える。−−これらの、下位に結び付けられた五つのきずな、この五つのきずながまさに、現代の人々であると。
 しかし現代人は、なかなか死なない。なぜ死なないのか。それはできるだけ生かすように、例えば病院等の研究が進み、病気治療等の研究が進んでいるからである。しかし、いったん病気にかかると、それはまさに実験動物であると。レーザー等によって焼かれたり、あるいは薬漬け、いろんな新薬によってナーディーを詰まらせたり、無智にさせられたり等々、これはまさにこの現代人のカルマがいかに悪いかを意味している。もしカルマが良ければ、苦しみなくこの生を終え、また次の生へと転生するはずである。
 しかしわたしたちは、それすら許されない。つまり、苦しみながら苦しみながら、来世というものを見ることも、聞くことも、経験することもできず、死んでいかなきやなんない。その恐怖はものすごいし、また、その前に生じる肉体的苦痛、あるいは貪り−−例えば食べたくて食べらんない等のね−−といったような苦しみというものも当然増大すると。

    (九三年四月十七日 仙台支部)


(1)身内からも排斥される−−孤独感

 わたしたちは、老いるに従って、一般の人からだけでなく身内から見ても、疎んじられる存在になっていくことは否めません。特に日本では昔から「姥捨て」の思想があり、現代に至ってもその心の働きは受け継がれてきているようです。
 老人の多くが病院や施設に入るのも、家庭では介護する能力がないためですが、そうした事情以外にも、身内の側に、「介護によって、自分の時間がとれなくなる」とか、あるいは「ほかにも身内がいる中で、なぜ自分だけが貧乏くじを引かなければならないのか」といった、老人を厄介者扱いする心が働いているのではないでしょうか。
 これは、明らかに、その老人が過去において他を排斥してきたカルマ(地獄のカルマ)が、現象化してきていることを表わしていると言えるでしょう。
 その結果、あたかも臭い物にふたをされるかのように、老人病院や老人ホームに追いやられたり、一人暮らしをしてホームヘルパーなどの公的介護を受けるようになるしか、道は残されなくなります。そして、絶えず孤独感や不安感に苦しまなければならないのです。

 「日本の老人病院のある部分は、きちんとした老人ケアの思想のもとになされているが、ある部分では単なる姥捨山となっているところもあるようだ。入院させて最初のころはときどき見残いのために顔を見せる家族も、入院が長期化するとめったに顔を見せなくなるという。めったに顔は出さないのだが、年に数回は必ずくる家族もあるという。それら家族の目的は患者への面会ではなく、患者の受け取るべき年金なのだ。だから必ずくる面合日はいつも年金支給日に合わせてあることになる。年金がなかったら、その家族が面会に来るのはおそらく患者が死亡したときだろう。
 家族にも医療にもそして社会にも見捨てられ、よるでゴミのように死んでゆく多くの老人たちのことを見たり開いたりしていると、この国の誇っている豊かさとはなんなのだろうか、とむなしい気持ちに襲われる」

  (『病院で死ぬということ』山崎章郎著)

 (2)智性の激しい衰え−−痴呆

 これは、動物のカルマ(無智のカルマ)の代表的なものです。  痴呆は、大きく分けて、脳の神経細胞それ自体が病的な老化を起こして減少していくアルツハイマー型と、脳の血管の中にコレステロールが沈着して詰まったり、出血するなどして脳の機能を喪失する脳血管性の痴呆の、二つのタイプがあります。
 この痴呆にかかると、著しい記憶喪失や計算能力の障害、言葉の障害などを起こし、ひどくなると自分の名前もわからなくなり、身内の顔も思い出せなくなったりします。そして、妄想状態に陥ったり、徘徊・失禁をしたりするのです。
 痴呆症で介護を必要とする老人は、九三年時点で十万人となっており、二〇〇○年には二十万人になると見られています。そして、その後もどんどん増え続け、二〇二五年には四十万人にもなると予測されています(寝たきりを除く)。
 この痴呆は、高齢になればなるほどかかる率が高くなっています。


(3)病気・衰弱で入院すれば−−薬漬け・検査漬け・点滴漬け

 老いは、体の免疫機能を弱らせたり、著しい体力の衰えをもたらしますので、常に病気と隣り合わせです。そして、いったん体調を崩すと、様々な病気を併発したりします。したがって、介護と治療の二つの機能を併せ持つ老人病院は、高齢社会にはなくてはならないものになっているのです。
 しかし、今の老人病院の現場では、入院してきた老人を不必要なまでに薬漬けにしたり、検査に次ぐ検査を行なったり、点滴漬けにしたりなど、そのあり方に大きな問題があるといわれています。これは、病院側の経営優先主義・儲け優先主義によって、老人が犠牲になっているということが言えるでしょう。実際、一時期、老人病院の過剰診療が、多くの入院している老人の寿命を縮めているということで、社会問題となったことさえあります。
 では、これは一体どういうカルマと考えられるでしょうか−−そうですね、まさに病院側の貪りによって、苦しみを与えられているのです。したがって、自己の貪りによって他の魂を犠牲にしてきたカルマが、表面化していると考えることができるでしょう。

 「日本の老人病院のほとんどは閉鎖すべきです。老人については医療機関がお金ばかりを考えていて怠惰だったと思います。病院のほうがレベルの高いケアを受けられると一般的に思われているようなところがありますが、それは逆です。病院は往々にして寝たきりの老人をつくります。薬漬けにして病気を重度化させます。要らない検査を重ねて入院検査を伸ばして病院経営を優先しています。老人もその家族もだまされています。病院での老人の扱いはお粗末です。テクニカルに見ても劣っています。日本は他の分野では素晴らしく進んでいるのにです」  
(『お年寄りに太陽を−−SOS!日本の老人福祉』フィリップ・グロード著)


(4)介護が必要−−不自由・屈辱

 高齢になればなるほど、自分の体が思うように動かなくなり、やがては介護を必要とするようになります。介護といっても、ホームヘルパーやデイサービスなど、在宅で受ける介護で済ませられるほどの健康状態なら問題はないのですが、完全に施設や病院に入らなければならないほど衰弱したり、病弱になったりしたときには、大変な不自由を強いられることになります。
 自分で身の回りのことができないわけですから、それこそ食事から下の世話まで他人の手を借りることになります。そこでは、単に不自由なだけでなく、介護者の性格にもよりますが、一人前の人間として扱われず、大変な屈辱を味わわなければならないことさえもあるのです。  これは、他を虐げてきた嫌悪のカルマ、あるいはプライドのカルマの清算と言えるのではないでしょうか。
 「沢子さんは、友人の状況からつくづくと思い知ったのである。休も弱り、気も弱り、家族たちの負担を少なくしようと思えば、老人病院なり老人ホームなりに入るのが一番と思うようになるにしても、そこから、自分自身のすべてを放棄する覚悟でなければならないのだ、と。
 いままでは、歩こう会、カラオケからゲートボール、はり絵、俳画と、手当たりしだいに顔を出して、余生を楽しみ、じょうずに余しく生きていると思ってきた。しかし、それらの思いは、安江さん(※沢子さんの友人)の入院とともに、音を立てて崩れていくのがわかった。
 安江さんの姿は、近い日の自分自身の姿ではないか、と沢子さんには思えてならないのである。いままで気が合い、趣味も同じで、家族以上の心の通いがあった安江さんは、沢子さんの影でもあり、同体でもあったと思わずにいられない。
 自分もいつか、あのようにべッドに転がり、恥辱で全身を硬くしながらも、隠しようもなく下半身をさらけ出し、目をうつろにしていなければ、長寿とやらを生きていけないのか。長生きとは、その人によって尺度が違うのだろうけど、いやだ、いやだ、あのようにしてまで生きていたくない。何かよい方法はないものだろうか。長生きするのはめでたいことで、よいことだとは、もう老人たちは思っていない。その長生きの中身こそが肝心なのであって、水がほしくても飲めないなんて、とても人間の生活とは思えない(※水を飲んだら尿が出ておむつを汚すため、介護者にスリッパで叩かれたり、お尻をつねられるという)。
 沢子さんは、安江さんの婆から地獄を見ずにはいられない。どうしてこうならなければならないのだろうか。老人はよすます増加し、ばけと寝たさりの生き地獄はふえるばかりではないか」

(『死ぬ前にも地獄がある−−長生きはご迷惑ですか』夏地弥栄子著)


 (5)生に対する絶望感と死を待つ恐怖

 老いは、わたしたちから人生のすべての喜びを奪い去り、わたしたちを加速度的に死の縁へと追いやります。
 日本は世界一の長寿国とはいわれますが、その実態は、高齢者の多くが病院などの施設で、希望もなくただ生かされているだけにすぎないといっても過言ではないのです。病院や施設に行けば、薬漬けにされ、ベッドにうずくまって、ただ時間を無意味にやり過ごしているだけの老人が、なんと多いことでしょうか。
 五蘊に蓄えられた悪業が、人生の末期に至って一気に表面化し、体の痛み・苦しみにあえぎながら、「生きていてもしようがない」という絶望感にさいなまれたり間近に迫る死の恐怖におびえなければならないのです。

 「三十過ぎて四十ったら、あっという間だよ。五十、あっという間に来ちゃったね。ちょっと気が付いてみたら七十だもん。ただ、生きてるだけかな、ただ。何にも考えてないや。死を考えてないし、生きてんのかな、ぼやっとした生き方だね。うん、何も考えてない。だから、早く寿命来て、もう死にたいんだよ。疲れた。何の希望もないしさ、夢もないし、家族もいないし、わたしはあまり信仰ないからね。この世で現世しかないし、あの世はないし」
    (老人A−−インタビューより)

<老いを超えて>  
           

◆老いの意味合い

★★★
 実際、この現実の世界、つまりこの人間の世界というものは、わたしたちをマーヤーヘと取り込みます。このマーヤーとは何かというと、生まれ、そして死にゆく間、いかにもそれは真実で、そして絶対的に壊れないかのようにわたしたちを惑わします。しかし、実際は、多くの示唆をこの人生の中で与えられているはずです。
 それは例えば仏典にも、闇魔大王が登場し、そしてこの世で悪業をなした者に対して、「お前は四人の召使いを見なかったのか」と、あるいは、「三人の召使いを見なかったのか」 という言葉によって、生・老・病・死という四つを表わし、それが、「実際わたしたちにとって、この現実の世界が実際はマーヤー、幻影なんだよ」ということを表わしているんだ、ということを説いています。
 つまり、真剣にわたしたちの周りの人たちを観察することにより、あるいは周りの生き物たちを観察することにより、わたしたちがいくらそれを考えたくないと考えても、そこには生、病、そして老、死という四つは存在するんだと。そして、それを避けることはできないし、逆にそれをしっかり知り、そして、その死を超越した意識状態によって、死後の世界、あるいはこの人間界以外の世界を理解することこそ、わたしたちにとっては、本当の幸福なんだよ、ということを説いている教え、これが真理なのです。

   (九一年二月八日 千葉市民会館)

★★★
 つまり、言い方を換えるならば、この老いというのはわたしたちに対する愛なんだね。いいですか。わからないだろ。わかるか。つまりどういうことかというと、わたしたちは老いるよね。老いるという恐怖があるからこそ、善行が積めるよね、言い方を換えれば。どうだ。もし老いなければどうだ、悪いことやったって、いいことやったって、全然変わらなければどうだ。わたしたちは、自分のエゴを満足させるために、煩悩のために、悪いことだけをするんじゃないか、どうだ。
 (八九年三月二十八日 富士山総本部)

 「老い」は、支配流転双生児天(闇魔大王・夜摩王)の御使いの一つとして、仏典に登場します。つまり、わたしたちに、この世界が無常であることを認識させるためのサインであり、警鐘なのです。わたしたちが、この貴重なサインを読み取り、この世の無常を認識し、そこから離脱するための修行に励むなら、この老いだけでなく、すべての苦しみを克服することができるのです。
 そういう意味で、「老い」は、神々の愛の現われでもあるのです。


◆老いを超えるために

★★★
 ここで、一つ言っておきたいことがあるんだよ。それは何かというと、こう考えましょうと。わたしたちには五つの器があるんだと。その五つの器に、ある程度濁った水が入っていると。これがわたしたちの生誕であると。これを少しずつ少しずつろ過していくと。これが修行である。これに少しずつ少しずつ、泥その他の濁る要素を入れていくと。これが現世の生活である。よって、現世の生活の終わり、つまり、終焉の時期が「老い」というかたちで、五蘊がもう完全なる苦蘊に変化していると。
 ところが一方は、そうではなくて、ろ過しているわけだから、死の寸前というか、輪廻転生の寸前には、完全に、この人間界にいられないほど清らかになっていると。そして、そこで何が起きるかというと、神秘的な力だけではなくて、一切楽の状態が起きるということだね。これをつくり上げていくことが、わたしたちが生きるという目的であると。要するに、生きるという目的をしっかりととらえることができたならば、老いについても正確にとらえることができるんじゃないかということだね。

   (『マハーヤーナ』NO.38

 今まで見てきたように、わたしたちの人生の行く末には、「老い」という悲惨とも言える末路が待ち受けています。
 しかし、わたしたちの老い先を悲惨にしているのは、それまでに積み上げたカルマの悪さゆえなのです。もし、それまでに五蘊を浄化し、高い世界の要素を身に付け、三悪趣の要素をできるだけ薄めておくならば、(追い詰められる老人)のところで挙げたような悲惨な現象が、身に降り掛かってくることはありません。功徳優位の五蘊になっていれば、人生の最期になっても、心は全く苦しむことなく、淡々と死に至るプロセスを歩み、そして正しい転生へとつなげていくことができます。
 そして、もし今生で解脱をすることができるなら、この「老い」という運命を背負った身体から本質的に自由になり、意識が作り出した身体を新しい乗り物として、生きていくことができるようになるのです。

★★★
 つまり老化とは、わたしたちの必要でない経験、正しくない経験による管の詰まりであり、若返るとは、それらのナーディーの詰まりが取れ、内側の風が強められたことを表わすわけである。そして、真理の実践とはまさにこの風を上昇させ、最終的には肉体から完全に撤退させることであると。そしてそれにより、この肉体にとらわれないもう一つ別の身体を獲得し、生死を超越することであると言うことができる。   
(九二年十二月十九日 金沢支部)
★★★
 よく、間違った仏教解説の中で、絶対自由とは、この世に生きていながら自由奔放に、カルマにとらわれず生きることであるという話があります。しかし、これは正しくありません。なぜならば、自由奔放に生きているようで、実際この肉体は病み、老い、そして死の三つの法則を避けることができないからです。
 しかしもし、わたしたちが心のままに変化身を自在につくり出し、そしてその変化身の中に意識を移し、自在に生きることができるならば、それはどうでしょうか。例えば、この変化身を法身の状態に戻す、つまり形のない状態に戻すとき、あるいはつくり出すとき、それが意思どおりに行なわれるとするならば、それは絶対自由のはずです。そして、この化身には病もなければ老いもないのです。つまり、心によって童子の身体をつくることもできるし、あるいは老化した身体をつくることもできるわけです。
(九一年七月十四日 神奈川県高津市民会 館)


★修行で「智性に老いなし!」

 老いによる障害の現われの一つに、智性が低下してくることが挙げられます。つまり、思考能力や記憶力、判断力など精神活動の低下が引き起こされるのです。
 しかし、尊師は、「年齢によって智性が低下するということはないと。逆に、『しっかりとした瞑想その他を行なっていれば智性はどんどん向上する』ということが言えると思う」とおっしゃっています。つまり、智性の低下は、わたしたちのナーディーの詰まりが原因であって、そのナーディーを瞑想などで浄化することによって、逆に年とともに智性が向上していくのです。
 さあ、皆さん、たとえこの肉体が老いによって衰弱しようとも、修行によって智性を向上させ、来世への土産としようではありませんか。

★★★
 智性はなぜ低下するのかというと、それは風の制御こよって低下するんだと。つまり、7万2000本のナーディー(気道)があって、その7万2000本のナーディーが詰まることによって、その部分の働きが停止してしまうと。それによって、その先っぽが死んでしまうということで低下するんだというのがわたしの見解なんです。
     (『マハーヤーナ』No.38)