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日々の実践のためのワンポイント



◆ One Point Lecture ◆
煩悩捨断−1 邪悪心(上)





 必ず、煩悩は止滅する。それはなぜだ。それは、有限だからである。無限のものではないからである。
  (九二年四月二日 第二サティアン)


 六つの極限頑張っていらっしゃいますか。
 これまでこのコーナーでは、タントラの七つのプロセスに始まり教学や決意などの具体的な修行法について学んできましたが、今回からは、煩悩捨断のためのポイントを見ていきます。
「あなたにはどんな煩悩がありますか」と聞かれたら、何と答えますか。食欲、性欲、プライド、嫌悪などを挙げる人が多いかもしれませんね。
 では、「あなたにはいくつの煩悩がありますか」と聞かれたら、いくつと答えるでしょうか。よく日本では百八つの煩悩と表現されていますが、北伝仏教では八万四千の煩悩が存在するといわれています。心の働き一つ一つを検討すれば、八万四千以上の数を数え上げることができるかもしれませんね。逆に、それらの心の働きを「愛書・邪悪心・迷妄」という三つに分類してとらえる人もいることでしょう。
 このコーナーでは、三つの根本煩悩と、それらから派生した数多くの煩悩のうちの代表的な煩悩を取り上げ、下位のものから順番に見ていくことにします。初めに取り上げるのは、邪悪心の捨断についてです。

1.根本煩悩の一つ、邪悪心

●邪悪心

 本来、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態にあったわたしたちの真我は、ラジャス・タマス・サットヴァという三つのエネルギーの干渉を受けた瞬間から落下のプロセスを歩んできました。そのときからずっとわたしたちがとらわれ続けている三つの根本煩悩の一つが邪悪心です。
 邪悪心とは嫌悪を筆頭とした、文字どおり「邪悪な心の働き」のことなのですが、もっと具体的にいうとどのようなものなのか、麻原尊師の説法中のお言葉で見てみましょう。

◆「嫌い」と思う心

 例えば、邪悪心というのは、「あの人嫌い」、これ邪悪心だよ。「あの人大っ嫌い」、これ邪悪心だ。
  (九一年五月三十日 ダラムサラ)

◆邪悪心とは

 この邪悪心は、他人を蹴落としたい、他人を傷つけたい、あるいは、極端な例になると、他人を殺してしまいたいといったような心の働きを指します。
(「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」ザンゲコーナー」)

◆対象に害を及ぼす心

 邪悪心というのは、あの人なんか嫌いと。一緒にいたくないわと、ね。あの人を殺してやりたいとか、ね、いじめてやりたいとか、そういうふうな対象に対して害を及ぼす心、これが邪悪心だね。
 (九一年十月二十六日 名古屋支部)

◆対象を破滅させようとする心
                
 邪悪心とは古典仏教において「瞋(ジン)」と呼ばれた煩悩のことである。つまり、対象に対して、対象を破滅させてやろうとする心の働きである。
 (『ボーディサットヴァ・スートラ』)

●嫌悪

 先程述べたように、嫌悪と邪悪心は別のものではありませんが、日常の修行生活の中では邪悪心よりよく耳にする言葉ですので、嫌悪とはどのようなものなのかについても見ておきましょう。

◆嫌悪の正体

 嫌悪の正体とは何かというと、まさに自我意識なのである。つまり、「これは我である」「これはわたしの感情である」「わたしの考えはこうである」「したがって、他のものはすべて否定できる」 と。(中略)
 嫌悪とは先程言ったとおり、自我意識の最も最悪のものである。したがって、「自分はいいが他人はいけない」という発想のもとに立つ。
(九三年八月二十三日 第二サティアン)

◆自と他を区別する心

 嫌悪とは何かと。自と他を区別する心、つまり、今日わたしたちが唱えた「大乗の発願」とは全く逆の心の働きなんだ。わたしだけが幸せであればいいと、わたしのためにすべては存在しているという、そういう考え方だね。
(89年4月2日 大阪支部)

●怒り

 怒りには、慈愛・哀れみを背景とした怒りと嫌悪を背景とした怒りとの二通りあります。ここで嫌悪を背景とした怒りについても見ておきましょう。

◆怒りの背景にあるもの

 じゃあ、これはなぜ起きるのだろうか、この怒りは。そう考察してみるとだ、この怒りの背景には、自己を防衛したいと、ね、自己を傷つけたくないと考える心の働きが存在しているんだということはわかるよね。
 もし、自分は傷ついてもいいんだと、自分は、例えばいろんな人から何かを言われたときに、ね、それを吸収してやるんだという気持ちが、もしだよ、あったとしたならば、どうだ、怒ると思うか、これは。それで、すべてがカルマの法則によって成り立っていると考えることができたとしたならばね、例えば他が自分を傷つけたとき、あるいは自分に攻撃を加えたとき、怒りの感情が出てくると思うか、どうだ。自分を守りたい、あるいは自分の家族を守りたい、あるいは自分の周りを守りたい、あるいは、自分の国を守りたいということで怒りが生じるんだよね。それはどうだ。
 いや、麻原、お前はそう言っても、ね、怒りというものは歴然としてあるんだよと。ね。そして、それは、わたしが他を排斥しようとしなくても起きてくる感情なんだよと。エゴが存在しなくても生起する感情なんだよと。あるいは、ね、憎しみというもの、嫌悪というものはね、無意識のレベルで生起するんだよと、生じるんだよという人がいたとしたならば、わたしはその人と、ね、問答してみたい。ね。
 今までたくさんの人と会い、そしてたくさんの相談を受けてきたけども、怒りの感情の背景には、必ず自己というものが存在していると。そして、自己を守りたいと、自分はかわいいと、自分の周りの人はかわいいと、自分の国はかわいいと、大切にしたいという気持ちが、ね、背景にあってだ、そして、怒りの感情が生じるんだということを考えてほしいんだ。
  (八八年九月十七日 名古屋支部)

●愛着と邪悪心

 さて、このような邪悪心は、愛著・迷妄という他の根本煩悩と密接に絡み合って生じる心の働きです。

◆迷妄、愛着・邪悪心

 もし、ここに愛著というものがなければ、いいかな、当然邪悪心は生起しない。これはわかるかな。つまり邪悪心が生起するというのは、特定の対象を独占しようとするとき、あるいは、特定の対象を独占するために、その対象を取られたぐないと思う心の働きによって、邪悪心は生起するのである。「いや、そういう場合じゃない場合もある」と言うかもしれない。しかし、それはそうなのである。
 例えばだよ、ここに、「一人でいたい」と、一人ということに対する愛著している人がいたとしよう。その人はどうだ、その一人という空間を壊されるとき、当然邪悪心が生起する。では例えば、ここに愛する者がいて、その愛する者と仲睦まじく生活していたと。いいかな。しかし、その対象を、別の対象が現われて、横取りしようとしたと。このとき当然、邪悪心は生起するよね。どうかな。
 つまり、愛著あるがゆえに邪悪心が生起するのである。これは、愛著と邪悪心というのは表裏なんだね。つまり、貪・瞋・癡という三つのわたしたちを苦しめる煩悩というものは、実際は並列ではなく、まず迷妄があり、そして愛著と邪悪心、つまり、癡がまず存在し、そして貪と瞋というのは、表裏で同時に生起するんだ、と認識すべきである。もっと別の言い方をするならば、愛箸が先に生起し、その愛著の裏返しとして邪悪心が生起するんだと、いうふうにとらえるべきである。いいかな。
 ということは、この愛著を捨断しない限り邪悪心は生起するんだと。そして邪悪心が生起する限り、わたしたちは、当然、三つの悪趣へと転生する可能性を生じさせるんだということだね。わかるよね。
(九一年九月一五日 横浜支部)

 邪悪心とは、愛著を背景に自と他を区別し、自己を中心として自分の利益のために他を排斥したり傷つけたりする心の働きということですね。
 もう少し他の表現をすると、邪悪心には例えば次のような心の働きも含まれます。

・他の魂に対して残酷なことをなすイメージ
・他の魂を阻害したい心
・他を排斥したいと思う心、自分の空間をつくりたいと思う心
・嫉妬
・恨み
・対象を憎む気持ち


●三管との関係

 ヨーガ理論によると、わたしたちの人体には重要な三つの管(中央のスシュムナー、左側のイダー、右側のピンガラ)があります。邪悪心というのは、右の気道、つまりピンガラ気道の浄化が遅れている場合に起きる現象です。

◆右の気道
 尾てい骨の右側から各チァクラを通過し、最後にアージュニァー・チァクラの右に至っているのが、ピンガラ管である。ピンガラ管は、わたしたちの邪悪心のエネルギーを運ぶ管である。この管が通っていると、わたしたちの身体は熱くなり、そして邪悪な心に支配される。
(『タターガタ・アビダンマ・第一誦品』)
●チァクラとの関係

 また別の角度から邪悪心について見てみましょう。根本煩悩である邪悪心は、派生されて、各チァクラに対応します。ムーラダーラ・チァクラは邪悪心、スーリヤ・チァクラは怒り、ヴィシュッダ・チァクラは害心が対応しています。

◆邪悪心と怒りと害心の違い

(質問者)スーリヤ・チァクラが解放されると、怒りが止滅に向かうとあるのですが、この邪悪心と怒りの定義の違いについて、詳しくお願いいたします。
(尊師)邪悪心というのは意地悪な心、と考えてください。怒りというのは、対象に対する破壊的衝動行為と考えてください。例えば、何か言われてカッと怒ると。これは怒りだよね。しかしそうじゃなくて、あいつは普段からわたしをいじめてるから、こうしてやる、ああしてやると考える、これは邪悪心だよね。そういう違いがあります。で、今度は害心というのはまた別で、仏教的な害心というのは、相手を蹴落としてやろうとか、あるいは自分が優位に立ってやろうとかする心の働きなんだね、これは。ということです。
(九二年一月二十六日 第五回大説法祭)

 邪悪心とはどのようなものか、おわかりいただけたでしょうか。皆さんの日々の身・口・意の働きに、ここまで述べられてきた邪悪心に当てはまるものはありませんでしたか。自分で振り返ってみましょう。

 2 邪悪心のデメリット
 自己の身・口・意の働きを厳しくチェックするならば、だれにも多かれ少なかれ邪悪心を背景とした行為があるのではないでしょうか。
 邪悪心を持つことがわたしたちにどれほど大きなデメリットをもたらすかを記憶修習し、捨断の助けにしましょう。

◆環境は心の現われ

 例えばある人が邪悪心が生起したとしたら、その邪悪心によって空間が形成され、邪悪心の多い魂ね、その邪悪心の集まっている中に自分自身が身を置き、邪悪心によって苦しまなければならないと。こういう状況になるわけだね。
   (九二年四月十九日 京都支部)

◆嫌悪こそ悪魔の使い手

 では、嫌悪はどうであろうか。本来人間というものは、人と、特に愛する人たちと交わり、楽しみ、そして語らい、それを喜びと考えるはずである。しかし、嫌悪の情は、自己の心を閉鎖し、そして、いいことにつけ、悪いことにつけ、ブロックすると。そして、この嫌悪の念が強くなると、相手の優しさあるいは相手のあったかさというものが伝わらなくなり、すべてが自分を痛めつけてるといったような被害妄想的な心の働きになり、結局自分自身を孤立させ、不幸にしてしまう。
 もし、法をしっかりと学び、人の話をよく聞き、受け入れようとするならば、そのようなことはないはずである。そして、絶えず人の良さを学ぶことにより、心は成熟するはずである。つまり、この嫌悪こそ、悪魔の使い手といわざるを得ない。なぜならば、この嫌悪は、わたしたちが本来他の魂から学ばなければならない多くの利益というものを阻害するからである。
  (九一年一月三日 富士山総本部)

◆物事がありのままに見えなくなる  もし、ここに人がいて、人を憎むこと、ね、あるいは、闘争することに心を集中していたとしよう。この人の心の状態というものは沸騰したお湯のような状態だ。ね、怒りまくってるわけだ。
 いいかな。S、どうだ。この人が中間状態に入ったとき、死後の世界で中間状態に入ったとき、物事を正しく見ることができると思うか。(中略)
 例えば、どんなに正しい者でも怒りの感情があるときというのはね、正しく見えないんだね。歪んで見えるんだ。ね。それが怒りの心を持った人の恐怖だということができる。
 (八八年九月四日 富士山総本部)

◆心のけがれ、身体的に熱が出る

 嫌悪から生じる怒りというものは、他との間に憎しみが生じる。それだけではなくて、どうだ。自己の心においても、ね、当然心のけがれになるし、そして、身体的にも熱が出てくるよね。
 (八八年十二月十三日 富士山総本部)
 カルマの法則によると、邪悪心によって他の魂を苦しめれば、そのカルマは自分に返ってきます。
 皆さんは、ここに挙げられているような邪悪心のデメリットを実際に体験したことはありませんか。何となく環境が殺伐としている、周りの人から孤立してしまう、人間関係が悪くて精神的に緊張が続く、周りの人の言動に傷つき苦しんでいる、ひいては対人恐怖症や自閉的な心になってしまうなど。そのような状況の中ではその苦しみにとらわれて自己の持っている因に気づきにくいかもしれません。けれども、その苦しみから少し離れて法則にのっとって自己を見つめるならば、これらの現象が自分の邪悪心の現われであることがよくわかるはずです。直接的に自分の身・口・意の行為を検討するだけでなく、環境を自己の心の現われとして見ることによって自分の持つ要素の証智に役立てましょう。
 また、すぐにカルマが返らなくても、その邪悪な身・口・意の行為は自己のコーザルにデータとして蓄えられ、いつか果を招きます。今生でそのカルマが返らなければ、そのデータは転生を左右するものとなります。次回は、邪悪心による転生を見たのちに、邪悪心の捨断について取り上げます。