正悟師から法友のみなさまへ

助言の花飾り

「教学によっていかに智慧を得るか」



 今日は「教学によっていかに智慧を得るか」という話をしたいと思います。
 まず教学とは何か。これは地図に相当するというふうにいわれています。これはわたしたちか修行によってどのような進化をたどるか、世界の構造、三界の構造に合わせてこのよう な過程をたどるという全体像と。そして日々の 生活において、それぞれがなさなけれはならな い指針−−例えば戒律など−−を表わしたもの であると。
 しかしこの教学、この教えというものを 、もしわたしたちが単なる知識として認識し記 憶するだけではあまり意味がありません。わた したちにとって必要なのは、この教えというも のをしっかりと記憶修習しそして記憶実践せる ということなのです。
 それはなぜかと。わたしたちにとって本 質的に必要なもの 到底しなければならないも のというのは智慧です。この智慧とは 現象を ありのままに見つめ、そして何かわたしたちに 利益を与え、何かわたしたちに不利益を与える のかと。これを認織させるものです。また智慧 を、わたしたちの本来の姿である純粋真我の状 態、その真我の有する純粋観照智その現われと いうふうに理解してもいいわけですが、しかし わたしたちはその真我の状態からこの三界の経 験を繰り返し、その世界においていろいろな煩 悩を修習することにより、誤った観念が深く意 識の中に根づいているという状態になっていま す。これによってわたしたちは、何か本当にわ たしたちに利益を与え、何が不利益を与えるの かというのわからなくなっていると。これは観 念によって制約された意識状態というふうにい えます。
 この観念によって、倒錯した価値観とい うものができ上がっているわけですが、教えと は、「何が自分に利益を与え、何が不利益を与 えるのか」、これを逆にしっかりと整理してい くための知識というふうにいえます。しかし、 これを単に記憶にとどめるだけの知識として認 識するならば、それは今まで自分が記憶修習し た煩悩や観念と相反するデータ、それを知った ということにすぎません。ですからしっかりと 、ただ単に知るというレベルから、それを記憶 修習し、深く意識に根づかせ、そして自分自身 の誤った行動パターンを変え、法則そのものに よって生きるという、この記憶実践;教えをし っかり学び、そして記憶修習し、それにのっと り考え、実践するという、この四預流支のプロ セスが必要なわけです。これによってわたした ちは智慧を得ることができるわけです。
 具体的には、例えば「このような布施を なせばこのような果報が返る」という教えがあ ると。それは、その実践をなす以前においては 、なぜそれが返ってくるかということがわから ないわけですけれども、わからなかったとして も、その教えを実践してみると。深くその教え を記憶修習し、そして実際に実践し、どのよう な果報が返ってくるのかと。そして実際に、あ る一定期間の布施の実践によってその果報が返 ってきた段階で、自分の今までの価値観・観念 の中にはなかったかたちで、「このような布施 をなせばこのような果報が返る」というその教 えそのものを自分の身をもって体験することが でき、それによってこれまでの自己の価値観に はなかった見方で現象を理解することができる と。
 あるいは、「このようなカルマを積めば 、このようなカルマの返りがある」「このよう な悪業をなせば、このような悪業が返る」とい う教えがあると。悪業ですから自分でなさない としても、例えば身の周りの人について観察す ると。そしてある一定期間の観察によって、い ろいろな人のパターンを検討し、「実際にこの ようなカルマが返ってきた。それは法則どおり である」と。もしこれをいろいろなパターンで 理解するとするならば、その人の以前持ってい た価値観の中でのいろいろな知識、そしてその 知識を組み合わせたいろいろな思考−−これは 知能というふうにいえますけれども、知識・知 能という枠組みを超えたかたちで、今まで自分 の中になかった法則の見方・法則の理解という ものが根づき、それによって深く現象を理解す る二とができると。これが一つの「智慧を得た 」ということができる現象です。
 まとめますと、わたしたちが教学によっ て知る教え、この一つ一つの教えをしっかりと 記憶修習し、深く意識に根づかせ、そしてそれ を実践すると。それによって智慧というものを 得ることができるわけです。ですから土台のこ の教えというものをおろそかにせず、わかって いることでも何度も何度も深く自分の意識に根 づかせると。そしてそれを日々怠らず実践する と。これが重要なのです。

 もう一つ別の角度から、この「教学と智 慧」というものを説明します。
 イニシエーションには三種のイニシエー ションがあるといわれます。それはコーザルイ ニシエーション、アストラルイニシエーション 、そして現象界の口頭伝授によるイニシエーシ ョンと。この三種類のイニシエーションは、コ ーザルイニシエーションが最もレベルが高く、 次にアストラルイニシエーション、そして最も レベルの低いのが口頭伝授のイニシエーション というふうにいわれています。 このコーザル イニシエーションとは、グルがこのコーザルの データを直接弟子にインプットすることによっ て、コーザルレベルから一気にその人の意識状 態を浄化するというものです、しかしこれは相 当に弟子のレベルが高く、グルとのパイプが太 い状態でなければ大変な危険性を伴うイニシエ ーションであり、下手をすると気が狂う可能性 さえもあるという、それほど高度なイニシエー ションです。
 そしてアストラルイニシエーションとは 、グルが弟子のアストラルに対してイメージを プリントすると。あるいはエネルギーを移入す る、ヴァイブレーションを移入すると。それに よってその人のアストラルレベルでの浄化が起 こると。
 そして現象界の口頭伝授のイニシエーシ ョンというものは、グルの弟子に対する口頭伝 授、あるいは一般の教え−−これは皆さんが教 学によって学ぶ、一般の戒律を含めての法則と 。このようなものを含んでいるといわれていま す。
 この口頭伝授のイニシエーションという ものは、一般の教えというかたちで、レベルと しては最も低いですけれども、しかし確実に着 実に皆さん方の意識を変えていくものであると いうことができます。
 そしてこれらの二つのイニシエーション は、それぞれの弟子のレベル、グルとのパイプ の太さによって実践できるレベルが決まってく ると。つまりパイプが相当太ければコーザルイ ニシエーション、あるいはアストラルイニシエ ーションというものが可能になるわけですが、 やはり初期の段階では現象界の、この口頭伝授 のイニシエーション、あるいは一般の教えとい うものから入っていくと。そしてこの一般の教 えから少しずつグルとのパイプを太くすること により、アストラルイニシエーション、コーザ ルイニシエーションというレベルに上がってい くことができます。
 それは例えば日々の生活の中で、いかに このグルの教えというものを実践していくかと いうことにかかっていると。例えば、まだ寒い わけですが、「寒い。では寒いから厚着をして ストーブを着けて」というように、ただ単に凡 夫的な思考をなすのではなく、この“寒い”と いうことに対して、「グルだったらどのように なすだろうか」「グルの教えではどのようにな っているか」と。例えば、「ああ、この“寒い ”というのは寒冷地獄のカルマであると。それ が自分にある」と。だからこれを切るために忍 辱の修行ととらえたり、あるいは 「自分自身 がこの寒さというものを、この苦しみを味わう ことにより、寒冷地獄の住人の苦しみが減りま すように」という、大乗の修行としてとらえる と。
 このように一つ一つの現象において、「 グルだったらどうするだろうか」ということを 考え、グルの法則を当てはめ実践すると。この 実践をなすことにより、どんどんその人のグル とのパイプというものは太くなり、より高度な イニシエーションであるアストラルイニシエー ション−−夢にグルが現われたり、それによっ て示唆を受けたりといった、アストラルレベル でのイニシエーションが可能になり、さらによ りパイプが太くなれば、グルに心を向けるだけ で、その人にとって今必要な示唆というものが 智慧として現われ、それを得ることができるよ うになるわけです。
 ですからこの土台の教学、一見わかった ことのように見えるこの教え、これをおろそか にせず、しっかりと記憶修習・記憶実践すると 。それによって智慧に到達していただきたいと 思います。