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日々の実践のためのワンポイント

◆ One Point Lectur e


教学  (前編)



 オウム真理教の修行には、ウインド・トレーニングやムドラーなどの行法、決意や歌の記憶修習、マントラ、教学、瞑想などいろいろありますが、皆さんは、日々の修行というと、どのような修行を思い浮かべますか。
 いろいろな修行をバランスよく行なっていくのはもちろん大切なことなのですが、中でも教義の記憶修習は、わたしたちが修行を進めていく上で欠くことのできないものです。修行の四つの土台(教学・功徳・瞑想・イニシエーション)の一番最初に挙げられるのは教学ですし、聖なる八段階の道(正見解・正思惟・正語・正行為・正生活・正奮闘・正記憶修習・正サマディ)も、正見解、すなわち多くの真理の法則を学び、記憶することからスタートします。
 その理由は、次の開祖の言葉に端的に表わされています。

「最初に必要となるものが、真理のデータということ。わたしはよくこういう言い方をする。真理のデータなくして、どうしてこれを真理だといえるんだ、と。どうして、これを、例えば善行、例えば悪業だと断定できるんだ、と。
(『マハーヤーナ』二十五号)」

 今月のこのコーナーでは、真理の実践のすべての基礎となる「教学」について学んでいきましょう。



 1 教義の意義



●オウム真理教の教義とは


 「教学」とは、その字が表わすとおり、教え(教義)を学ぶことです。「真の宗教の四つ(五つ)の柱」の一つに「教義」が含まれていることからもわかるように、教義とは、その教えがどのような世界観を持ち、それを実践することによって何が得られるのかを示すものですから、わたしたちが宗教を選択する際にも根本となる大切なものです。


◆教義とは

 教義というものはまず何だと、ね。教義というものは、オウム真理教がなぜこの世に存在しているのかと、ね。そして、それは一体、どういう修行システムを持っているのかと、ね。そして、そのときに心はどう変化するのかと、あるいは霊性はどのように変化するのかということが教義だ、ね。
   (八八年六月四日 世田谷道場)


◆地図のたとえ

 つまりね、教義というのは何かというと道なんだね、これは。地図なんだよ、地図。地図の中の道なんだよ。だから例えば、北海道からどのように行ってどのように行けば、青森に達すると。そして それから、ね、どういう道を使って行けば東京へ行けると。これが教義だね。
   (八九年三月十八日 札幌支部)


 では、オウム真理教の教義とは、どのようなものなのでしょうか。ほかの宗教の教義とどのような違いがあるのでしょうか。


◆絶対的真理に根ざした教え

 オウム真理教の教えは、原始仏教・原始ヨーガに根ざされた、これはこの宇宙の創造・維持・破壊というスケールの小さいものではなく、その宇宙の創造・維持・破壊が行なわれる何百万回、何千万回という古きにわたる絶対的真理というものに根ざされている。よって例えば、今存在しているすべての宗教が、このどれかのカテゴリーに必ず入ると。ただし条件は、その宗教がもし本物であればの話である。もし、だれかが偽物の宗教をつくり上げたとするならば、それは当然この教義体系のどの部分にも入ることができないから、説明がつかないということになる。そして、これらのすべての教えを完全に包含することのできる教義体系、これこそが、真の教義なのである。

 ではなぜ、それが真の教義なのかと。それは、わたしたちが日々行なっている、行為・言葉・心の働き、例えば行為についてはいいことをする、あるいは悪いことをすると。言葉については、例えば優しく人に話をかけるとか、あるいは悪口を言うとか、心については例えば、すべての魂が幸福になってほしいなと考えるとか、あるいはすべての魂が不幸になればいいやと考えるとか、このような相反する感情、相反する行為、相反する言葉によってどのような世界へ転生するのか。その転生のすべてを知るためには、すべての世界観が当然認識されなければならないと。そして、それらのいかなるケースについても、その世界が提供でき、はっきりと示すことのできる宗教、これこそが真の教義を持った宗教であるといえると。
 (九一年十一月二十一目 那覇支部)


◆ほかの教義との違い

 オウムには四本の柱があるって皆さん知ってるか。その一つは、教義であると。教義というのは、どのようにして心は進化していくかと、どのようにして霊的に進化していくかと、どのようにしたら幸福になれるかと、どのようにしたら苦悩から解放されるかという一つの柱があるね。これは教義であると。
 他の宗教組織だって、ね、教義は持ってるよ、ね。しかし、オウムの教義と他の宗教組織の教義の違いは何かと言ったら、オウムの教義っていうのは科学的であるということ。それから、どの人も理解できるということ。そして実践をしていけば、必ず経験をするプロセスだということだ。ね。
    (八八年六月六日 福岡支部)


 オウム真理教の教えは絶対的真理に根ざしたものであり、二千五百年前のサキャ神賢真理勝者の教えと同じものだということなのですが、では、なぜ今存在している「お経」を学ぶのではいけないのでしょうか。


◆自分の言葉で経典を理解する

 例えばあなた方は、日本に仏教と呼ばれる教えを土台としたお寺がたくさん存在するのを知ってるはずである。しかし彼らは、漢訳の意味のわからない経典を読んでいると。しかし、仏典というものはもともと、わたしたちの身の行為、言葉の行為、心の行為というものを浄化し、そして統御するための教えである。この浄化し統御するための教えであるはずの仏典の言葉の意味すら理解できないで、果たしてわたしたちに正知、正しい知識を発生させ、不放逸や、あるいは慚愧の念を生じさせるだろうか。
 確かに、漢訳のかなりの部分は正しく訳されてるわけだから、その漢訳を記憶することは、正見解を具足したといえないことはない。しかし、それはちょうど、意味もわからないのに英文を暗唱するのと同じで、確かにその人は英文を正しく記憶はしているが、そののちの正思惟・正語・正行為・正生活・正奮闘努力・正記憶修習・正サマディ、そして正精通・正離解脱には到達しないのである。なぜならば、正しい見解を具足するということは、その教えの意味合いを理解するということである。理解するとするならば、それはわたしたちの言語、つまり日本語でしっかりと理解できなければ理解のしようがない。
 したがって、まず第一になさなければならないこと、それは当然、経典の翻訳ということになる。…(中略)…そしてオウム真理教は、その作業をコンピュータを使い、あるいは多くの人材を投入し今行なっている。そして、それによって多くの事柄がわかってきている。それは仏教とは観念ではないと。仏教とは完全なる観念の崩壊であり、この愛欲の構成要素、これを完全に浄化し、形状界、非形状界の世界を完全にクリアにし、そして自分自身をアートマン、つまり真我の世界へ還らせることなのであると。
(九一年十二月十五日 第二上九教学センター)


◆現代の比喩を用いた説法

 この特別教学システムや、あるいは基礎教学システムをしっかりと学ばれるならば、まず、オウム真理教の教えと、そしてその背景にある原始仏教の、あるいは原始ヨーガの教えというものの、両方 が身につくはずなんだね。で、この、なぜわたしが両方と言ってるかというと、それは、原始仏教の比喩というのはあくまでも二千六百年前の比喩であり、あるいは二千五百年前の比喩であり、現代の 比喩ではないと。
 この「比喩」というのはね、仏教的言葉を使うならば方便ということです。
…(中略)…
方便というのは実際は嘘ではなくて、比喩だね。で、この比喩を現代語的に説き明かしている、これが、わたしの説法であると。だから、この両方を併せ持ってはじめて、仏典の真の意味合いというのをあなた方は理解できるわけです。
  (九一年九月十五日 杉並道場)


 わたしたちは、絶対的な真理を説く真の教義……それも自らの母国語で説き示され、現代の比喩が用いられた教えに巡り合えたのです。この素晴らしい教義を学ぶこと、それが教学なのですね。


●教学の必要性
 では、次は「教学」とは何か、なぜ教学が必要なのかについて見ていきましょう。


◆教学の目的

 まず、教学について話をしたいと思います。もともと教学の目的というものは、「なぜ、ここにいるのか」と。「なぜ、大切な有暇、つまり時間、この時間というものをオウム真理教で過ごしているのか」と。「なぜ修行をしているのか」と、その意味合い、そして経典との照らし合わせ、これをもし理解していなければ、必ずや、あなた方の修行というものは挫折をするでしょう。そして、例えばいろいろな体験をしたとしても、それが一体経典のどの部分に属するのか、それを理解していなければ、あなた方は自分たちの進路というものを理解できないということになります。
 つまり教学のない修行というものは、ガソリンの入っていない車のようなものであると。あるいは教学のない修行というものは、えさを与えられないでこき使われている荷物運びの馬のようなものであると。それは必ず目的の途上で止まってしまうと。
 そしてこの教学を確実に行なうことにより、自己の悩み、あるいは他人の悩み、あるいは、いろんな課題に対する正しい思索をすることができるようになる。つまり思索をするための一つ一つの材料、これが教学によって与えられるわけです。
(九〇年三月四日 富士山総本部道場)



 教学は、わたしたちが教義のアウトラインをつかんで自分の向かう方向性を定め、自分の修行の進度を確認しながら修行を進めていく上で不可欠なものです。
 それでは、教学の必要性について説かれた説法をもう少し見てみましょう。



◆潜在意識にデータを合理的に入れる

 教学システムの狙いというのは、ここではっきりしておきたいんだけどね、あなた方が極厳修行に入ったときに、潜在意識が現われると。あるいは、あなた方が死″というものの境に潜在意識が現われると。そのときにどういうデータが入っているかが、輪廻転生の決め手になるんだよ。わかるかな、言ってることは。で、その輪廻転生の決め手になるデータを、いかに合理的に入れるかということが狙いなんです。
 (九一年十二月二十九日 杉並道場)


◆正しく現象を観察するために

 つまり教学を行なうということは、これは一つ勘違いしちゃいけないけど、教学で智慧は増大しません。教学で増大するのは知識です。そして知識をもとに現象を分析したならば、智慧が増大します。
 例えばこれは、如意足相応の中にも、前もって記憶修習したものによって現象を観察し、とあります。つまり、前もって記憶修習したというのは、教学によって記憶修習したものによって、現象を観察するということです。じゃ逆の言い方をすれば、教学をしなかったら、何によって現象を観察するんだということになると。それは煩悩によって観察しているわけだから、煩悩はもともと、ね、輪廻の志向が強いから、結局一つの問題に対して正しい解答が得られないことになります。わかるかな、言ってることは。
 それはちょうど、ある数学の問題があったとして、その数学の問題に対して正しくない公式を使って解こうとしている場合と同じです。その公式が間違っていたら、もちろん公式から導き出すことが、公式そのものを導き出すことができる人であるならば、ね、それが一番いいわけだけど。次の段階としては、正しい公式を使いこなせるようにならなければならないよね。わかるよね。それが教学です。
  (九二年九月二十九日 札幌支部)


◆煩悩的データによる洗脳を弱める

 説法テープを多く聴き、『マハーヤーナ』を何度も何度も読み、自己の心のデータを入れ替えるということ。
 例えば、例として挙げるならば、空腹感が生じたと。その空腹感に対して真理の教えでは、その空腹というものは、例えばまあ餓鬼のカルマである。あるいは、実際に必要で空腹になっている状態である。あるいは、胃が拡張して空腹になっている状態である等々いろいろな見方があるだろう。しかし、一般には、空腹イコール、何かおいしい食べ物はないかなという心の働きへと変わってしまうと。この二つの心の働きは大きな違いを招く。
 つまり、前者はより分析的に心を統御するようになり、そしていずれ餓鬼の世界と縁を切り、餓鬼のカルマを切ると。ところが後者は、どんどんどんどん煩悩を増大させ、餓鬼のカルマを増大させるという結果になる。よって、この現代のいろいろな情報に洗脳されてるわたしたちは、多くの教学をすることにより、その洗脳の力を弱めるということである。
 (九〇年十二月二十四日 杉並道場)


◆正しいサマディに入るために

 ここで、問題になってくるのは、例えば一番目の、何が真理で何が真理でないのかということを理解できてないと、この六番目、この観察の智においても、当然ずれが出てくる。
 例えば、現代人は、膨大な時間を使って、マンガ、アニメ、あるいはテレビ、映画、雑誌等のデータを入れている。そして、こういうデータは、わたしたちの知らないうちに深い意識に根づき、このデータをもとに判断をするという謬見解を培うことになる。よって、その前に、ひたすら、何が真理で、何が真理ではないのかの記憶修習をなさなければ、このサマディというものが、全く無効になってしまうということなのである。
  (九一年一月三日 富士山総本部道場)
 わたしたちの日々の身・口・意を決定するのも、そして輪廻転生を決定するのも、すべてはわたしたちが内側に持っているデータが勝負です。「わたしたちは小さいときから正しくない見解をたくさん学んできている。それに対して、真理のデータを同じぐらい入れないと、正しくフェアーに判定することはできない」
 (九一年二月十七日 杉並道場)


 と開祖もおっしゃっているように、わたしたちは日々教学に励んで、自分の中のデータをしっかり入れ替えていかなければならないのです。


●教学の恩恵

 では、教学はどのような恩恵をわたしたちにもたらしてくれるのでしょうか。
 まずは日常の生活、日々の真理の実践における恩恵を見てみましょう。



◆悩みを解消する

 この教学をしっかりと理解するならば、それにのっとりものを考えることにより、皆さんの悩んでいること一つ一つが、ちょうどここに氷があり、それをバーナーの火であぶることによりどんどん溶 け、水になり、水蒸気になり消えていくように、皆さんの悩みは解け出し、そして消えてしまうのです。
 しかし、もし、ここに氷が存在していて、それに対して全く熱を加えなければ、その氷は存在し続けるのと同じように、皆さんがもし、しっかりとした教えというものを理解していなければ、皆さんの悩みというものは全く解決されません。
 よって今、オウム真理教が皆さんに教学をまず第一に実践してほしいと考えていることは、皆さんの悩みを、皆さんの苦しみをまず取り除くためには、教学を実践することから始めるべきであると考えたからにほかなりません。
(九一年十月二十日 大阪府寝屋川市立市民会館)


◆魔に対して強い心に

 当然、時間があれば説法テープを聞かなければならないし、時間があれば教学をしなければならない。…(中略)…そして、教学がきちんと行なわれると、心は徐々に徐々に防備されてね、魔に対し てすごく強くなると。それに瞑想を行なえば鬼に金棒であると。いいね。
  (八九年二月二目 富士山総本部道場)


◆思索にずれがない
 しっかりした教学によって根づかされた瞑想というものは、思索というものは、そこにずれが生じないんだよ。
 (九一年十月十六日 富士山総本部道場)


◆転生の際にも

 人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない。そして、アストラルにそのような・真理のデータがたくさん入っていると、その死と転生に際して、わたしたちはアストラル、現象界へと転生するわけだから、大きな恩恵を与えてくれることになる。ところが、もしその知識がこの現象界だけならば、それは死とともに消えてしまうわけである。
 (九一年二月十六日 札幌支部)
 教学がもたらしてくれる恩恵はこれだけにとどまりません。なぜなら、教学はクンダリニー・ヨーガ、マハームドラーへの到達をもたらしてくれるものでもあるからです。


◆クンダリニー・ヨーガの成就へ

 で、何を言いたいかというと、この教学、これをしっかりとデータとして根づかせておくと、君たちが修行に入ったとき、いいか、修行に入ったとき出てくるデータというのは潜在意識だから、例えばもし煩悩があれば煩悩しか出てこない、例えば下向の修習していれば下向の修習しか出てこない。しかしもし君たちがしっかりと教学を自分のものにしてるならば、その教学のデータはどんどん出てきて、そして早々と光の体験、意識の連続、変化身の体験、ね、それからダルドリー・シッディというこの四つの条件をクリアします。いいか。
    (九二年一月六日)


◆マハームドラーに到達する教え

 そして、このマハームドラーに到達するためには、しっかりと教義を理解しておく必要があると。例えばだよ、今君たちが行なっている教学システムのこの百三十本のテープを君たちが完全に記憶し たとしましょう。この状態で君たちがマハームドラーに入ればだ、集中力さえその修行中に身につけていれば、三日かからないうちにマハームドラー成就するでしょう。それほどの教えが、今君たちが 行なっている教学システムの中にはあるんだよ。
 つまり、わたしはまずラージャ・ヨーガのテストをして失敗した。クンダリニー・ヨーガのテストをして失敗した。よって、マハームドラーを次は中心に据えるためにはどのようにしたらいいか考えた。そして、そのためには教えであると。で、まず経典の記憶修習をやらせてみたと。どうも経典は難かしすぎて理解できないと。で、次に説法テープと。確かにこれはかなり理解していると。しかし、例えば、まだその経典の内容について正確に話すことのできる人が少ないと。
 でも、もし君たちがこの経典の内容、あるいは説法の内容を完璧に理解することができたら、瞬時にマハームドラーの悟リヘと到達するであろう。では、それはなぜであろうかと。それは今なしている教学体系、これはまさに無色瞑想の奥儀であるからであると。
 (九一年十一月六日 富士山総本部道場)


◆最終解脱の第一ステップ

 教学システムというのは、当然正見解を具足する、これはOKですね。正見解を具足するということは、四預流支の二番目、あるいは聖なる八段階の道の一番目、これを達成することになるわけですか ら、そこから次に正思惟、あるいは如理作意といったようなかたちの思索のプロセスに入り、そして行為の続御、そして生活の統御・言葉の統御といったようなものに入り、奮闘努力し、記憶修習することにより最終的にはサマディに入ると。サマディに入ることにより、如実精通見解が生じ、遠離・離合し、解脱すると。つまり、この教学システムは、最終解脱の第一ステップであるということがいえます。まず、これはおわかりでしょうか。
 そしてそれだけではなく、教学システムをしっかり行なうことにより、例えば自己の煩悩を見つめることにより、多くの悟りのうちの一つ、二つ、三つといったかたちの、小さな悟りから大きな悟りへのステップを歩くことになります。これはどうでしょうか。
 つまり、この正見解こそが第一の法であり、初めであり、終わりの法である、というふうにお考えください。
(九一年十月二十日 大阪府寝屋川市立市民会館)


 教学はすべての修行の土台であり、また、わたしたちを最終地点まで導いてくれる法でもあるのですね。
 次号でも引き続き教学について取り上げます。今回は、教学の意義について学びました。次回は教学の実践方法について学びましょう。

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