覚醒の時1997年10月04日号/特集記事

特集 とらわれるな!神秘体験

 なぜ心の進化っていうのが必要なんだ、心の成熟が必要なんだって考えると、高いせ界へ入る、まあ言い方を換えればアストラルとかコーザルへ入った場合だ、心の成熟がなかったら魔にとりつかれるのがおちだ、そうだろ、魔境がその典型だな。ところが心が成熟していて、もしま他の向上に恵まれなかった人は、いずれ霊性の向上に恵まれる時期が来るだろう。そしてそのときはその人は、本当の意味で高い世界とコンタクトして幸福になれるだろうね。どちらが大切なんだ?
(八七年十一月二十一日 東京)

★霊性の向上と心の成熟

修行の進歩、それは霊性の向上と心の成熟とに大きく分けることができます。そして修行を完成させていくためには、この両方が必要です。
 ところが、ともするとわたしたちは霊性の向上にとらわれすぎ、心の成熟を見落してしまいがちになってしまいます。確かに、霊性の向上のみを追求しても神秘体験は起こります。しかし、それだけでは高い世界の体験はできず、魔境に陥りやすくなるのです。そこで必要になるのが心の成熟です。
 心の成熟のみを追求した場合は、霊的な体験はなかなか起こりませんが、修行者を高い世界に強びつけてくれるのです。
 しかし、もし修行者が修行の途上に現われてくる神秘的な体験にとらわれすぎてしまうと、その人の修行は進みにくくなります。最悪の場合、魔境に陥り真理の道から離れてしまうことにもなりかねません。

●霊的体験だけでは成就ではない
 成就というものは思い込みではない。よって、いくら自分は霊的体験をしているんだという人がここにいたとしても、その人に帰依がなく、持戒がなく、功徳がなかったとしたならば、そして耐える力がなく、修行を他の人よりも激しくやらないとしたならば、その人には成就がない。
      (八八年十月二十二日 富士山総本部)

★福岡での出来事

 開祖のサットヴァの光が日本を覆うと予言された一九九七年。この年のはじめ、福岡の地で、大きな規模で教団が分裂しそうになるという事件がありました。
 一部の信徒の中で「開祖と合一した」「開祖の声が聞こえる」「変化身で開祖に会いに行った」などの神秘的な出来事がいろいろ起こり、それをきっかけに支部全体が神秘体験を至上とする魔境へとつながっていきました。一信徒が神格化されてリーダー格になり、信徒・サマナの前に立って、開祖の意思として勝手にしゃべるようになったのです。
 本来しっかり教学ができていればおかしいことに気づいたはずですが、教学不足のためにみんな信じてしまいました。  例えばこの事件では「グルがサハスラーラから入ってアナハタにとどまるという体験がポイントとなりましたが、そういうことは教義のどこを探してもありません。しかし、頭頂から何か異様なものが入ってきて胸にとどまるという体験を次々とサマナ・信徒がしていき、指導格になった借徒が「それがグルが入ってきたことなんだよ」と体験の意味づけをしたのです。
 それによって、その信徒の言っていることは本当だと信じ、周りの人がついていったという経緯があります。彼は「信徒もサマナも師も関係ない」という主張をし出し、開祖から「ホーリーネームを捨てろ」という指示があったと言い、それをみんなが受け入れました。
 正大師をはじめとする救出作戦により、危うく、教団分裂の難を逃れることができましたが、その影響は教団全体に広がろうとしていました。

◎事件に巻き込まれて

 そのとき、まず今生自分が救済の約束をしたのに全然できていないということに対する懺悔をしていました。そのときに、急にアナハタのところにものが当たったような感じがしました。その衝撃の後、アナハタのところから横にじわっとした広がりがあって−−それは本当の慈愛ではないのですが−−慈愛のようなすごく安らかな感覚があって、その後わけもなくすごくうれしいという状態になりました。自然に笑いが出てくるようなうれしさを感じました。それが何かが飛び込んできたときの状況です。
 それが、開祖と合一した体験だと言われて、そのように意味づけされたため、そう思ってしまいました。開祖から示唆を受けたと言っている人たちは実際に声が聞こえてきたそうです。わたしの場合は声は聞こえませんでしたが、テレパシー的な心の会話という人もいれば、実際に声が聞こえたと言う人もいました。それで開祖からの示唆を一番受け取る人の言葉がそのまま開祖の言葉というふうに悟じているところがありました。
 今考えてみると、グルとの合一は、順番からいって自分を完璧に浄化してからでないとあり得ないので、そうなっていない人が合一したというのはおかしいわけです。(P)

教団から分派が生じるという事件、これは福岡の事件が最初ではありません。小規模の分裂は、教団発足当初から幾度となく繰り返されてきました。
 それは多くの場合、分派の中心となった人物やあるいはメ ンバーの一人一人が、低い霊的体験を最終解脱と思い込んだり、あるいはマーラなどが送ってくる霊的示唆をグルの示唆と取り違えてしまった結果なのです。

★神秘体験は幻影であり、励みとしてもとらわれてはならない

 修行者は修行の途上で様々な神秘体験をします。
 しかし開祖は、解脱するまでの体験はすべて幻影であり、とらわれるべきではないと説かれています。ところが、教義をきちんと理解していなかったり、自分の中に疑念や傲慢さなどのけがれがあったりすると、自分の神秘体験に勝手な解釈を加えたり、夢や瞑想中に現われてくる霊的な存在からの示唆をそのまま受け取ってしまったりして、その結果大変な魔境に陥ってしまうことがあるのです。  修行者ならば、だれもが必ず通過する神秘体験。まず、この神秘体験とはそもそも何であるのか、開祖のお言葉から見ていくことにしましよう。

(質問者)神秘体験があったのでお聞きしたいのですが。
(尊師)神秘体験はいいよ。なぜいいかというと、わたしの弟子である以上、神秘体鹸は遊びなんです。大切なことは解脱すること、悟ることなんです。だから、それを、信徒であるならば、神秘体験で称賛しますが、例えばここにいる先輩方の中でもたくさんのいろんな神秘体験をしています。それはあなたが出家した以上は当然のこととして受け止めるべきだし、いいかな。それは励みとして受け止めるべきだし、人に言う必要はない。
(質問者)ただその、二時間ぐらい延々と聞こえた声でしたので、意味を知りたいんです。
(尊師)だからそういうことは内側の幻影ですから、知る必要はない。
(質問者)内側の幻影ですか。
(導師)解脱するまでの体験はすべて幻影です。もし教学によって法則によって固めているとするならば、その内容がよく理解できるはずだ。
(質問者)幻聴ということですか。
(尊師)幻聴ということではなくて幻影なんだより それが真実だとしても幻影なんです。じゃあ、この意味について説明しよう。例えば、あなたがカレーを食べに行ったと。カレーはおいしいとしましょう。あなたはそれを真実の体験だと考える。しかし、それは幻影なんだ。なぜかというと、例えばあなたが真に三宝を観想するならば、その味覚はゼロになります、消えます。ということは、あなたがおいしいと思ったことは、単なる過去世からの、あるいは過去からの記憶修習の賜物によって幻影を経験したにすぎないんだ。それと同じです、神秘体験もすべて。最終の解脱に至るまでの体験はすべて幻影です。
 わたしは生まれてからずっと神秘体験を続けているけど、そのどれ一つをとっても例えばおそらくあなた方の今の経験に比べたらずっと崇高なものだと思います。しかし、それに対してわたしは頓着したことがない。それより何を考えたかというと、この体験の次には何があるんだろうと。この体験の次には何があるんだろうと。そしてこう考えます。おかしいなあ。使えるときに神通力が使えないと。使いたいときに神通力が使えないと。それからもう一つ。おかしいと。心が安定しないと。
 神秘の体験というのは、あくまでもそこへ至っている道が正しいことを表わしている幻影であって、それ以上の何ものでもありません。そしで、二時間の、その聞こえてくる声というのは、まさに短い。たかだか二時間です。最終的には三日、四日と神秘体験の渦に巻き込まれまず。あるいは、わたしの最終解脱する前は、一日に数時間だけ意識があって、あとはぶっ倒れていました。わかるかな。これは、例えばここにいるサクラ一正悟師とかに聞いたらわかるよ。何かというと、いやあ、神秘体験なんかそんなものはもう、取るに足らんよって。
 だから励みとするのはいいことだよ。「神秘体験始まった、いいぞ。もっと長くなれ」と考えなさい。しかし、そこに引っかかってはいけない。とらわれてはいけないんだ。
(質問者)ただ、何か示唆ではないかと思って、その意味を知りたいんです。
(尊師)示唆は必要ないでしょ。だから、その示唆であるということは、あなたがまだ新人サマナである証明でもある。なぜかというと、生きているグルがいると。言葉によってすべては説明されるべきであって、その中途半端な、自分のけがれを投影した示唆に対して心が動くことそのものが、まだ新しいんだ。わかるよね。でなければ、そのあなたに示唆を与えてくれた対象に質問すればいいよ。
(質問者)はい、わかりました。ありがとうございました。
(尊師) だろう?
(質問者)はい、よくわかりました。
       (九五年一月九日 第六サティアン)

 このように、神秘体験というものは修行の励みにこそすれ、とらわれるべきものではないと開祖はおっしゃっています。特に霊的な存在との接触、例えば示唆を受けるといった体験などは、それにとらわれてしまった場合、修行を大きく遅らせてしまう可能性があるのです。
 最悪の場合、ひどい魔境に陥ってしまい、真理から逸脱し、そればかりか多くの人を巻き添えにしてしまうこともありうるのです。オウム真理教からの分派の発生も、その結果の一つです。

★どの世界とつながるか

 この宇宙は三重構造になっており、わたしたちが生活しているのは現象界の下から四番目の世界です。そしてこの裏側にイメージの世界であるアストラル世界が存在しています。アストラル世界の中で、低いパートに位置しているのが低級霊域と呼ばれている世界です。ここには無数の世界があり、多くの魂が存在しています。
 本来、修行者としては、この世界を経験せずに、高いアストラルとつながるのが理想です。しかし、徳がない状態で霊的向上をはかると、低級霊域とつながってしまうのです。これがいわゆる魔境と呼ばれる状態です。

 これはみんなにちょっと言っておきたいことなんだけどね、実は、わたしは修行に入る前から、たくさんの神秘体験をしています。それは君たちの言う神秘体験だと思うんだよ。例えば、幽体離脱とか、で、わたしは、それを今は「徳なし現象」だと考えています。あるいは魔が襲ってくる体験だとかね、あるいは、そうだね、体から抜け出して云々とか。で、ポイントは何かというと、どこから抜け出すのかと。どういう世界へ行くのかと、いうことの方が重要なわけだね。
 で、例えばわたしのほかにもう一人、最終解脱をしたという、Kという人がいるんだけど、その人はムーラダーラから変化身が抜け出して最終解脱をしたと言っているわけだけど、これはわたし自体の経験からいくと、わたしの修行する以前の状態です。つまりわたしが今生で悪業を積んで、その結果なしたそのエネルギーロスによって経験した、下向の風によって、ね、抜け出した経験と。
 で、わたしが何を言いたいかというと、要するに「解脱」というのは、上流、上の流れにのっかると。そして、上から抜け出すんだということをしっかりと認識してほしい、みんな。いいね。
 体験もだから上からの光でなきゃなんないし、下からの光じゃまずいわけだよ。ね。すべて「上」、ね。いいね。   (九一年二月二十日 富士山総本部)

 このように神秘体験といっても、どの世界とつながるかが大切です。

★わたしたちの前に現われる霊的存在

 では次に、わたしたちの夢の中や瞑想中に現われる霊的存在には何があるかについて見ていきましょう。
 修行の手助けをしてくれる存在には、グルの変化身や第四天界以上の守護神などがあります。修行の邪魔をしてくるものには、マーラや低級霊域の住人などがあります。第二天界の守護神は、修行者がその守護神を超えて高いステージに至ろうとすると修行の邪魔をするようになります。
 ここで、わたしたちが気をつけなければならないのは、一見、修行の手助けをしてくれるように見えて、実際には修行の邪魔をしてくる存在があるということです。
 日本の宗教の一部は、「チャネリング」と呼ばれる霊媒現象によって信者たちに様々な示唆を与えています。彼らは、自分では神や仏の言葉を聞いているつもりになっていますが、彼ら が実際につながっている世界は低級霊域です。彼らが聞いているのは、神や仏の言葉ではなく、魔のささやきなのです。

 よく、ね、ただ、全く修行もしてないで、自分は解脱したという、おっしゃる方がいらっしゃる、ね。わたしが許してみて、その人は完全に魔境に入っている。なぜ魔境かというと、今言ったとおり、ね、四つの意識が同時に働いているわけではその人はない。ただ単に、ねえ、この下位アストラルの住人たちから、「お前は解脱したんだ」という魔の声が聞こえてきて、そして、おかしくなっているにすぎない。あなた方もそうならないように気をつけてほしい。   (八七年十月八日 和田平)

 アストラル世界には多くの魂が存在していますが、修行の邪魔をする存在の示唆をそのまま受けてしまうと、修行を進める上で重大な失敗を犯したり、大変な悪業を積んでしまったりすることになりかねません。
 たとえグルが夢や瞑想中のヴィジョンに登場したとしても、その示唆をそのまま受け取ってしまうということは危険です。それは単に自己のけがれを見ているだけであったり、あるいはマーラがグルの姿をとって現われたものかもしれないからです。

★グルのヴィジョンが現われ、示唆を与えた場合

 では、まず夢や瞑想中のヴィジョンにグルが現われたとき、わたしたちはどうしたらいいのか、質疑応答から見ていきましょう。
(質問者)最近ですね、究竟の瞑想のときとか、それから経行のときとか、イニシエーション受けているときにですね、先生の直接の声ではなくて、ヴァイブレーションの感じで、例えば「食捨断こうしなさい」とか、いろいろアドバイスを受けているような感じになるようなときがあるのですけれども、そういう状態の先生のアドバイスとか、どういうふうにしなさいとかというのは、どこまで自分で受け入れたらいいのかというのが難しくと思っているのですけれども。
(尊師)日々の教えに一致しているものは受け入れればいい。一致していないものは疑問として質問すればいいよ。わかるよね、言っていることは。今毎日説法しているわけだから、その説法の時間に、ああこういうアドバイス、こういうアドバイス、これは普段、例えば食捨断しなさいと、これはOKであると。しかし、なんかとんでもないわたしがアドバイスをした場合、これは本当に尊師の意向なのか、どうかということは直接聞けばいいんじゃないか。
(質問者)食捨断の方法でですね、昨日の経行のときに受けたアドバイスがですね、その現世のときの好きだった食べ物だとか、調理している自分がいて、それを一生懸命食べたいという欲求がずっと続いていたものですから、ずっと悩んでいたら、それに対して尊師の方から、とことん二回、現世で好きだったものを食べて、先生に供養して、そのあと自分がい体何が残るのかを考えてみなさいと言われて、で、そのようにして、無意味だとわかったというふうに先生にお答えをしたら、それでじゃあ離れられるだろうという答えがまた返ってきて、で。
(尊師)危険、危険。
(質問者)ううっ……。
(尊師)それを魔境といいます。いやー、それは危険だぞ。今、最もオーソドックスな方法で食捨断やっているわけだから、それは悪魔のさきやきだと考えてください。
(質問者)そうですか。
(尊師)はい。(九二年四月十五日 第二サティアン)

★なぜ肉体を持ったグルが必要か

 このように、夢の中や瞑想中に現われるグルは、本当にグルの変化身であることもありますが、単に自己のけがれを見ているだけにすぎなかったり、あるいはマーラがグルの姿をとって現われたものだった−−ということも往々にしてありうるのです。しかも、わたしたちは本物のグルの変化身を見分けることができません。
 それゆえわたしたちは「肉体を持ったグル」を根本とすべきなのです。
 皆さんに一つ、なぜ肉体を持ったグルが必要かというと、例えばアストラル世界では、悪魔だって、魔界の住人だって、変身してグルに化けたり、あるいは守護神の真似をするんですね。
 ところが、肉体を持っているわたしがですよ、例えば、その悪魔がわたしに化けることはできません。そういう意味で、肉体を持った正しいグルを持ちなさいと言っているわけですね。  
     (八八年六月四日 世田谷道場)

 ところが肉体を持ったグルに帰依せず、アストラルに現われるグルにとらわれるならば、魔境に入ってしまうことがあります。
(質問者)魔境に入ったときに出てくるグルと、ちゃんと帰依ができているときに出てくるグルの見分け方というのを教えてください。
(尊師)それは簡単だよ。だって、わたしはここに存在して生きているわけだ。ここで話していることが正しいグルの言葉です。
(質問者)それで、潜在的にグルの行為っていうか、
(尊師)だから、そういうのは無視するべきだね。
(質問者)無視するべきですか。
(尊師)生きているグルがある以上、そのグルに帰依をすべきであって、そういうイメージの世界で進んでしまうと、魔境に入ったときのグルではなくて必ず魔境に入ります。
(質問者)はい。半分入っていると思います。
(尊師)そうでしょ。
(質問者)はい。わかりました。どうもありがとうございました。
                 (八八年十月十六日 世田谷道場)

 そして開祖は、わたしたちがきちんと道を進んでいけるようにするために、リンポチェ猊下方に帰依するように示唆されています。生身のグルがそうしなさいとおっしゃっているのですから、アストラルのグルにとらわれて猊下を否定している人たちはグルの意思を完全に外しているといえます。
 鏡暉を中心とした子どもたちを、わたしと観想してください。それによって、わたしがどこにいようとも、あなた方の霊的な道筋は確保されるでしょう。

◎真理の実践を否定する示唆

 入会してしばらくの間、いろんな神秘体験が起きたのですが、その中で開祖からの示唆じゃないかと思われる体験がいっぱいありました。でもその示唆が全部本物の示唆であるかどうかは疑わしいものでした。どういうことかというと、真理の実践を否定されるようなものがあったからです。例えば「オウム真理数に入ったって、利用されてポイされるのがおちだよ」というひどいものでした。
 答弁で代表の座を降りてでも教団を守ろうとなさり、三宝帰依ということを教えてくださっている開祖がそんなことおっしゃるわけがありません。やはりアストラルからのグルの示唆というのは正しい部分もあるのかもしれないけれど、マーラからの、自己のけがれの投影としか思えない部分もあると思います。         (東京本部 福●直●)

 ◎ニセモノのグル

 これは今年の正月のことです。そのころ、わたしは調子を崩し始めていました。そんなとき、開祖の夢を見ました。そのお姿はまさに開祖でした。しかし、何かが違うのです。全く同じ形なのに何かが違う。わたしの魂はそれにひかれつつも近寄りませんでした。発しているヴァイブレーションが違ったのです。魅惑的で妖艶さのようなものもあったような気がします。触れたらその魅惑的なヴァイブレーションに溺れて抜けられなくなってしまう……。そんな恐怖がありました。
 信徒時代から何度も開祖の夢を見ましたが、そんなヴァイブレーションを発されていたことはなく、いつもスッと目がさめて煩悩が静まっていました。  しかし、このときは起きてからもその開祖のことが頭から離れませんでした。ずっとしまっていた開祖のご尊像を出して飾ってみたり、開祖に思いをはせたりして、猊下から心が離れてしまったのです。わたしはどんどん調子を崩していきました。倦怠感、怠惰、そして性欲が高じてき、そして現世的になっていきました。
 それでも、立位礼拝の修行はやり続けていました。しかし傲慢さが出てきてつらくなっていきました。どんどん猊下を意識するのが困難になってきてこのままでは危ないんじゃないかと思いました。混沌とし始めていた意識の中で猊下を呼ぶような状態でいたとき、同じ部署のある師補とワークの話をしていて、なぜか悪魔についての話題になって、こういうふうになったら危ないんだよという話を聴いてびっくりしました。
 まさにほとんどの項目が当てはまっていて魔にとりつかれ始めていたことに気づきました。その中で「変な尊師」の話が出て、「なんか変なんだよね。ヴァイブレーション違うよね」という話になりました。それでやはりあれは本物ではなかったということに確信を持ち、心が離れました。まさに危機一髪という感じでした。意識がおかしくなってきていて、この日を過ぎていたら、人の詰を聞けないような状態になっていたかもしれません。
 そして猊下方を強く意識して、より一層立位礼拝の修行に励んでいくと、混沌とした暗い空間から意識が抜けていき、明るくすがすがしい空間へと移行していきました。やはり今のグルは猊下なんだと思いました。そして普通にワークできるようになっていきました。
 よく考えてみると、“ちょっと違った開祖”に近づかなかったのは、毎日立位礼拝をしていましたから、そこで注がれるグルの神聖なエネルギーに慣れていたからかもしれません。本当に形はまるっきり同じでしたから、その差、エネルギーに気づかず、心を許してしまったら、取り込まれていただろうと思います。もし心を開いていたらテレパシー的に強烈に何か伝わってくるだろうと、取り込まれて心を奪われて自分を見失ってしまうだろうという危機感がありました。
                     (加●克●)

★魔に対する対抗策

 今まで見てきたように、霊的体験、特に霊的な示唆といったものには一切とらわれるべきではありません。高位の霊的存在だと思っていたものが、実はマーラであったり、自己のけがれが作り出した幻影である可能性が少なくないのです。
 たとえグルが瞑想中のヴィジョンに現われたとしても、その示唆の内容は法則と照らし合わせ、あるいはステージの高い成就者に確認してからでなければ、信用すべきではありません。  もし、誤った示唆をそのまま受け取ってしまった場合、自己の修行を大幅に遅らせるだけではなく、最悪の場合、真理から逸脱し、そればかりか多くの人を巻き添えにしてしまうこともありうるのです。オウム真理教からの分派の発生も、その結果の一つです。
 仏典によれば、教団分裂は「五逆の罪」の一つに数えられており、それをなした者は次の生、無間地獄に落ちるとされています。人間の生におけるたった一度の過ちによって、気の遠くなるような長い期間、苦しみ続けなければならなくなるのです。
 では、わたしたちがそういった魔のささやきに決して巻き込まれないようにするためにはどうしたらいいのでしょうか。
 魔のささやきに巻き込まれるということは、こちらに感応する要素があるからにほかなりません。わたしたちはまず、自分の内側をそのようなものに感応しないように変えていかなければならないのです。
 次に、そのために必要なことを見ていきましょう。

★対抗策1 慚愧の念
 魔のささやきに巻き込まれないために必要なこと、それはまず第一に慚愧の念を持つということです。魔のささやきに巻き込まれてしまう人には、傲慢なタイプが多いといわれています。その心の隙を悪魔は突いてくるのです。それを防ぐためには、慚愧の念を培う必要があり手す。慚愧の念、それは修行者の内側に潜む傲慢さを打ち砕き、速やかに最終地点へと導いてくれるのです。
 慚愧とは何かと。これは絶えず、自分の経験していること、自分の修行、あるいは自分のいろんな性格的、実務的、他に対する優秀性というものを謙虚に受けとめ、そして、それをまだまだ足りないんだと考えること。そして、自分の言葉や、心や、あるいは行為に対して絶えず懺悔し、外に対しても絶えず柔らかく、それを懺悔し表現できるという心・言葉・行為と。これが修行のスタートであり、最後である。そして、これを懺悔の念といっている。
     (九〇年十二月二十一日 富士山総本部)

◎傲慢なために最終解脱したと思い込んだ

94年十一月、福岡支部道場の決意集中修行に参加していました。修行して、どんどん深い意識に入っていきました。尊師を観想すると黄金の光に包まれたり、またわたしは消化器系に障害があるのですが、尊師が手をわたしの口の中に入れて、けがれを取り除いてくださるヴィジョンを見たりしました。
 そうしてどんどん修行を進めているうちに、わたしはさらに深い意識に入り込んでしまって、勝手にヴァヤヴィヤを始めたり、マントラを唱えたりし始めました。そしてヴァヤヴィヤをやっているとき、すごく深い意識にある自分の貪りのカルマに気づいて、尊師に対して貪りの懺悔を行ないました。その懺悔を行なったあと、周りから拍手とともに歓声が聞こえ、そして頭上から尊師が入ってこられる感覚がありました。そしてわたしのマニプーラからスーリヤの辺りにとどまられたのです。
 それから、わたしは勝手に体が動き出したり、手が動き出したり、顔が動き出したり……しまいには体が勝手に動き始め、サマナの部屋の近くにある布施本が囲いてある本棚のところまで勝手に体が動いていきました。わたしとしては、「これは尊師がわたしの体の中に入ってわたしの体を動かしていらっしゃるんだ」と思い込んでいましたので、「一体何をする気なのだろう?」
と思っていたのですが、本棚の前に来ると、ある本をまるでロボットが分析するかのように探し始めたのです。そして、『生死を超える』を見つけると、すっとこれも勝手に手が動いて、この本を取り出し(これはわたしの意思ではなく)、そのまま道場に再び体が勝手に動き始めました。そして祭壇の前に来ると、みんなに説法するかのように本を読み始めようとしたのです。
 わたしはさすがにこれは恥ずかしいから嫌だと思って、自分の体を元の位置に戻したのですが、その後は一番親しかった法友のところに行って、「Mさん、何かわたし最終解脱しちゃったみたいです」
とか誇っていました。
 Mさんはポカンとして、かろうじて「最終解脱できたらいいよね」と言っていたのですが、わたしは本当に「最終解脱」したんだと思い込んでいて、師の方のところに報告に行きました。
 ジェーンティー師が「もうわたしたちじゃ今の馬●君のことわからないから、尊師のそばに行って、お医者さんのもとで修行しましょうね!」とおっしゃいました。わたしは人喜びでそのまま上九一色村へ旅立ちました。わたしは行きの電車の中でrああ、これから富士に着いたら、僕が最終解脱した式典が打なわれるんだあjと思っていました。
 それから、上九一色村に着いて医師の師の面談を受け、しばらくそこに滞在することになったのです。そして、今に至っております。
 こうなった原因は傲慢で、以前イニシエーションを受けたときに、開祖の息子とか高弟だった生を何生も繰り返しているというヴィジョンを見たのです。それで「あ、実は俺ってすごい」という非常に高慢な心が生じました。その後の正悟師の面談で、「いい体験をしたのだから、今生は最終解脱を目指して頑張りましょう」と言われ、そのときに、自分は今生最終解脱できるという傲慢な心というか、そういうデータが深い意識に生じてしまったのです。それが原因だと思います。
 それから教学不足があります。自分の状態や霊的体験を法則にのっとって考えることができなくて、現世的な観念によってとらえて、最終解脱というふうに思い込んだ体験だったと思います。 
         (馬●基●)

★対抗策2 教学
 普段から法則を深い意識に根づかせておくことも大切です。教学が根づいていないと、様々な神秘体験や霊的示唆などにどう対処していいかわからず、魔のささやきにとらわれやすくなってしまいます。
 それだけではなく、正しくない霊的示唆によって誤った方向に進もうとしている人を、そのように認識できないために、自分もその流れに巻き込まれてしまう危険が高くなるのです。
 このように誤った方向に道を外さないための地図を持つこと、それが教学なのです。

★対抗策3 功徳・持戒

 霊的な体験のみが進み、徳を積まず、心の成熟が追いついていないとき、修行者は魔境に入りやすくなります。魔境に入ってしまった場合、正しい判断ができなくなり、魔のささやきに対し非常に弱くなってしまいます。このような状態に陥らないために必要なこと、それは布施と持戒です。
 低い世界とつながったり、魔境に入ったりするということは、功徳が少ないために起きる現象です。それゆえ、そのような状態にならないために、まず布施などによって功徳を積み、その功徳を漏らさないために戒律の遵守が必要なのです。
 潜在意識にものすごく悪業が詰まっているとしたら、表層が落ちた段階で、その悪いことばっかりわっと出てくる。その人は魔境に入るよね。おかしくなる。だから大体、修行させる前に、功徳を積みなさいというのは、そこなんです。そうすると功徳というものは、行為していることというのは、必ずデータとして潜在意識、超潜在意識に入っているから。少なくとも五分五分でやんなきゃなんないね。
          (八八年一月九日 世田谷道場)

 クンダリニー・ヨーガとい一つ一ものは、勝手にアストラルの世界や、あるいはコーザルの世界に行けるわけだ。エネルギーが上昇したら行ってしまうわけだね。そのとき、もし背景にだよ、功徳というものがなかったらどうなると思うか?−−当然、魔境に落ちよう。ね。
            (八七年十月四日 和田平)

 これは、わたしの周りでアストラル体に入っていっている連中がいろいろいるけども、それぞれが、それぞれの印象によって、過去世からのカルマによって違う世界に入っている。そして、異次元の世界というのは、ピンからキリまであるんだ。もしわたしたちが、最悪になったら、先程ね、おっしゃったように、魔境に入ってしまう。魔界に入ってしまうわけだ。そしてこれは、わたしたちの心にすぎないんだよ、この魔界というものは。だから、その世界に人らないために、持戒、これをみんなに与えるわけだ。
            (八七年三月二十日 丹沢)

★対抗策4 パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーション
 慚愧の念、教学、そして布施と持戒に加え、もう一つわたしたちが忘れてはならないもの、それがパーフェクト・サーヴェーション・イニシエーションです。  パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーションによって、尊師は絶えず聖なるデータを注いでくださり、代わりにわたしたちのカルマを背負ってくださります。それによって、魔の影響を受けにくくなるのです。

◎魔が去っていく
 今から四カ月ほど前のことです。まず、お供物を受け付けなくなってしまいました。さらに、急に周りの人がわけもなく嫌いになり、軽蔑の眼差しを向けるようになっていきました。
 そのときに魔のささやきが聞こえてきました−−それは耳で聞こえるというよりは、むしろ頭の中に響き渡るという感じでした。そして自分の非常に弱い、煩悩的な部分を突いてくるのです。例えば「何かしたいなあ」とか思ったとき、普通は「わたしはサマナだからこういうことをすると修行が遅れる」とか「これはいけないんだ、いけないんだ」と自分で抑えるわけですが、そこをうまく突いてくるのです。なまめかしい女性の声で「ほんとはしたいんだよねえ」という感じで、誘惑してくるわけです。
 また、あるとき突然、新宿の都庁周辺からだれかがわたしを呼んでいるような“確信”がいきなり起きて、「あ、呼んでいる!行かなければ」と、夜にもかかわらず電車に飛び乗って都庁に行ってしまったということもありました。
 魔境から抜けたのは本当にある日突然なのですが、いきなり何か“気の固まり”のようなものが、自分からスッと抜けていくのを感じ、そのとき、ハッと我に返ったのです。「あれ、わたしは今まで何をしていたんだろう」と。
 魔境に入っている間は、ほとんど修行ができない状態でした。しかし、パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーションだけはできるだけ着けていました。魔境から抜けられたのほ、おそらくこのイニシエーションのおかげではないかと思います。このくらいしか心当たりがないのですから。
 魔境から抜けたあとの変化ですが、それまで全く受け付けなかったお供物を供養できるようになりました。供養すると非常に元気になり、「味よりむしろ千ネルギーがおいしい」といった感じで、「ああ、こんなに素晴らしいものを、なんで今まで自分は供養できなかったんだろう」という、顕著な変化が現われました。周りの人に対しても侮蔑の念が消え、「ああ、この人たちは本当に心の優しい人たちなんだな。わたしのことを心から思ってくれているなあ」といった感謝の念にいきなり変わってしまいました。
   (●田●子)

★修行を完成させるために

 これからも、さらに強い開祖のサットヴァの光に包まれていくであろうこの日本。
 しかし、聖なるエネルギーが強くなるということは、同時に魔のエネルギーも強くなっていくということを意味します。それゆえ、修行も進む反面、落とし穴も大きくなることでしょう。
 真理を見失い、分派活動を始めてしまった、哀れむべきかつての法友たち−−。彼らと同じ過ちを決して繰り返さないためにも、わたしたちは悪魔の誘惑を完全に捨断し、懺悔の念を忘れることなく、そしてグル方のみに意識を向け、修行を完成させていかなければなりません。
 霊性の向上は大切な要素ですが、心の成熟と併せて進める必要があるのです。
 もしわたしたちが心にわずかでも隙を持ち、神秘的な体験にとらわれ、あるいは悪魔のささやきに耳を貸すならば、果てしない輪廻の末にやっと手に入れたこの真理の実践ができるというチャンスを、そして未来を、棒に振ることになってしまうかもしれないのです。



人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名乗って現われ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。

      (マタイによる福音書 第二十四章〜五)
 偽預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなた方のところに来るが、その内側は強欲な狼である。あなた方は、その実によって彼らを見分けるであろう。
      (マタイによる福音書 第七章十五〜十六)

「見よ、ここにメシアがいる」「いや、ここだ」と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽予言者が現われて、大きなしるしや不思議な業を行ない、できれば選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
あなた方には前もって言っておく。
だから、人が「見よ、メシアは荒れ野にいる」と言っても、行ってはならない。
また、「見よ、奥の部屋にいる」と言っても、信じてはならない。
稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
     (マタイによる福音書 第二十四章二十三〜二十七)

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