すべてを奪い去る死 





落胆した後援者たちよ、開きなさい
人は、積み重ねた借金を返済するときのような
死の苦しみを、受けなければならない
死の時がやってくると
ヤマ天の看守たちに捕らえられ、連れ去られる
金持ちであっても、金で死を逃れることはできず
英雄であっても、剣でそれを征服することはできない
利口な女性でも、死を出し抜くことはできず
博学な学者でも、雄弁によって、その時を延ばすことはできない
死の時には、キツネのような臆病者も、こっそり逃げ去ることはできず
不運な者も、懇請できず
勇敢な者も、武勇を振るうことはできない  (『ミラレーパの十万歌』)

 

 

死の観察は、仏教徒の「教師」である
この教師から、価値ある行為をなすことを学ぶ
死の時には、喜びがないことを、常に考え、覚えておくべきだ
(『ミラレーパの十万歌』)



 わたしたちを包囲する死の軍勢

 皆さんは、事故などで人が死ぬ瞬間を目撃したり、知人や友人、親族の臨終に立ち会ったりしたことがあるでしょうか。
 今の社会は、「死」を最も忌むべきものとして、できるだけ目に付かないように「隠そう隠そう」としています。たとえ「死」を題材にした番組や映画があったとしても、大半は娯楽として、興味本位に扱っているにすぎません。そのため、わたしたちは「死」を我が事″として考えることができず、「無常」「苦しみ」といった、人生の本当の姿というものを見ることができなくなっています。
 生きとし生けるものは、「死」という運命を避けることはできません。「生じたものは必ず滅する」−−これは、だれもねじ曲げることのできない絶対の真理なのです。
 人生最大の恐怖−−「死」。しかし、ただ一つ、真理の法則によってのみ、「死」を超えて「不死」に至ることができるのです。その道を歩くためには、まず、しっかりと「死」というものを、自分の意識の中に深く根づかせることが大切
です。サキャ神賢真理勝者の時代にも、出家修行者たちは、この世の無常を悟るため、好んで墓場などに赴き、人の死や肉体の腐乱する様を観察していたそうです。「死」は、「老い」や「病」と同じように、わたしたち修行者にとっては、「無常」「苦しみ」を教えてくれる大切な教師なのです。
 今回は、「死」について学んでいきましょう。      


<病死>

 心臓や脳にある毛細血管が、コレステロールで詰ったり、高血圧などで裂けたりすると、わたしたちは一瞬で死の危険にさらされる。また、健康な人であっても、もともと体内には癌細胞があちらこちらに存在しており、いつ増殖し始めるかわからない。脳溢血・心臓病・癌・伝染病……死病は、突然わたしたちを襲ってくるのだ。

日本は食糧の大部分を外国からの輸入に頼っている。ある調査によると、もし、これらの輸入がすべて途絶えてしまうなら、1年以内に3500万人の日本人が餓死するという。経済恐慌や戦争、災害などで食糧危機になれば、わたしたちもアフリカ難民のように飢えに苦しむことになる。そして、やがては生死の境をさまよわねばならない。

<原発事故>

 1995年12月に冷却用液体ナトリウムが大量に漏れ、緊急停止した、福井
県敦賀市の高速増殖炉「もんじゅ」。
 原発の安全性には大きな問題があり、実際、各原子炉では小さなトラブルが頻発しているのが、現状である。
 1998年4月1日現在、日本には、52基の原子炉が稼働している。この原子炉が大きな事故を起こせば、広い範囲が放射能に汚染され、すぐさま、わたしたちの命にかかわる事態になる。体内に蓄積された放射能は、身体の免疫力を奪って白血病や癌を引き起こし、苦しみ抜いた末に死を迎えるのだ。


<自殺>

 世情不安や失恋、貧困、いじめなどで、いつ精神的な重圧に押しつぶされるかもわからない。首吊り・飛び降り・飛び込み・焼身・入水・割腹・薬物使用−−
将来に対して悲観的になり、自分で自分を死の淵へと追いやることも……。


<巻き添え事故死>(作業事故・その他)

 1991年に広島で起きた、新交通システム(高架式)作業現場での橋脚落下事故。60トンの鉄の塊が、信号待ちの車11台を押しつぶした。車内にいた人たちは、踏みつけられたトマトのように、一瞬にして血肉の塊と化したのだ。
 わたしたちは、いつどこで思わぬ事故に遭遇するかわからない。“100パーセント安全”と言える場所は、この世には存在しない。


<焼死>

 1997年の調べによると、火災は、全国で年間6万1889件発生、2095人が死亡している。特に、高層ビル火災は悲惨だ。火災現場より上の階にいる人たちは逃げ場を失い、高温の煙に巻かれての喉や肺を焦がされ窒息死する。また、炎と煙で窓際まで追いつめられた人は、熱による責め苦に耐えられず、次々と飛び降りて地面に叩き付けられる。
 わたしたちは今住んでいる場所や買い物に行った先などが、こうした修羅場にならないとも限らないのだ。


<交通事故>(航空機・船舶・列車等含む)

 1991年5月に起こった「信楽高原鉄道の正面衝突事故(信号故障のため作動したATS(列車自動停止装置)を解除して無理に発車したのが原因)」。大きく変形した列車内からは、血まみれの遺体が何体も見つかった。

 わたしたちが遭遇する可能性として、最も高いと思われる交通事故。激しい衝突により運転席で圧死したり、跳ね飛ばされて内臓破裂を起こしたり、また、引火して黒焦げの死体となることも……。

 1955年5月に起こった「宇高連絡船『紫雲丸』沈没事故」。別の船舶と衝突してからわずか数分で沈没。多くの人の目の前で、168人もの尊い命(大部分が修学旅行中の学童)が、1480トンの船体とともに深海に沈んでいった。

 航空機が墜落すれば、一帯は言葉で表現できないほどの惨状と化す。写真は1982年2月に起こった「羽田沖日航機墜落事故」(心身症の病歴のある機長が、エンジンの逆噴射など異常操縦をしたことが原因)。


<殺害死>

 現代人の心は予想以上にすさんでいる子供から大人に至るまで、多くのストレスを抱えてイライラしており その反動で破壊活動が高まってきている。
 わたしたちは、いつ他人の怒りを買うともわからない。暴動に巻き込まれたり、刺殺・撲殺・絞殺・銃殺・薬殺などの、衝撃的な事件の被害者になることも可能性として存在するのだ。
 1957年10月に起こった、社会党の浅沼委員長刺殺事件。17歳の右翼少年の一撃が一人の政治家の命を奪った。


<溺死>
 
 人間は、膝までの深さの水があれば“おぼれ死ぬ”という。乗っていた船が沈没し、溺死する可能性もあるが、近所の水路や川、あるいは海水浴場が、わたしたちの死に場所になることも十分考えられる。


<自然災害による死>
(地震・津波・土砂崩れ・噴火・洪水・竜巻・落雷・台風・熱波・雪崩・寒波)

 1991年6月に発生した、雲仙・普賢岳での大規模な火砕流。黒灰色の魔の手が、何度も麓の街を襲った。
 1995年1月の兵庫県南部地震は、一瞬にして神戸の街を破壊し尽くし、6300人以上の命を葬り去った。写真は、根こそぎ倒れた阪神高速道路・神戸線。
 わたしたち人間は、自然の驚異の前には全くの非力である。地震・津波・土砂崩れ・噴火・洪水・竜巻・落雷・台風・熱波・雪崩・寒波−−大自然の怒りは、まるで人間がアリの群れをもてあそぶように、多くの人の命を奪い去っているのだ。
 わたしたちが生活している付近に、こうした“死の危険”は存在してしないだろうか。


<戦争による死>(大量殺戮)

 核戦争になれば、一度の爆発で。数百万〜数千万人の命が奪われる。熱線で一瞬にして蒸発する人々、爆風で五体が引き裂かれる人々、炎の海の中で逃げまどい黒焦げとなっていく人々−−。あとに残されるものは廃墟と死体の山だ。たとえ運良くその場を生き延びることができても、重度の火傷や放射能の後遺症、飢えと渇きで、死者をうらやむほどの苦しみを味わわなくてはならない。そして、やがては息絶えるのだ。
 中東情勢を見ても朝鮮半島情勢を見ても、世界は、徐々に大戦に向け“きな臭い”状態になってきている。もう、いつ戦争が起こっても不思議はない。
 写真は、兵士の体に砲弾が当たって炸裂し、肉片になったところ。もし、わたしたちが戦争に巻き込まれるようなことになれば、このような人生の結末を迎えて当然だ。


 皆さんは、日々、「死」というものをどの程度意識していますか?
 自分の未来を考えるとき、「まさかわたしは、一年二年のうちに死ぬようなことはないだろう」と、無意識のうちに思っていませんか。ここで、「いや、死ぬかもしれないと考えている」と答える人でも、本音では「今日、明日中に死ぬということは、まずないのでは……」と思っているのではないでしょうか。
 しかし、よく考えてみるなら、わたしたちの周りには、一歩間違えば死に至る要因がたくさん潜んでいることがわかります。
 わたしたちは、自分が考えているほど安全な日々を送っているわけではありません。それどころか、実態は、まさに常に“死と隣り合わせ”なのです。
 あのナーガールジュナ(※)も、次のような詩を残しています。

  我の命を害するものは数多くある。
  なぜなら命は風によって簡単に破裂してしまう、
  水泡のようなものだからである。
  息を吐き出した後にまた呼吸し、
  眠った後また目が覚めるというのは
  大きな奇跡である。
 
 (『カギュー派 マハームドラー・グルヨーガの手引き書』)


 生命は、いとも簡単に壊れ去ります。わたしたちが“今日一日”無事に生きられたことでさえ、本当は奇跡に近いことなのです。

【※ナーガールジュナ  漢訳で「龍樹(りゅうじゅ)」。大乗仏教の基盤を確立し、以後の仏教に大きな影響を与えた。中観派と呼ばれる一流派の祖とされる。二〜三世紀ごろ活躍】



 ●人間の一生−−はかなき夢

 ★★★
  わたしがなぜ近ごろ、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ」という言葉を言ってるかというと、あなた方の価値観を転 倒させるためには、あなた方の価値観を破壊するためには、死というものを持ってくるしかないんだね。だって、必ず人間は死ぬでしょ。どうだ。永遠に生き続ける魂がありますか。もし、永遠に生き続けることができるなら、この世の財産、あるいはその他の諸々のこの世で肯定されているものというのは、あなた方に利益を与える。しかしあなた方は必ず死ぬんだと。もし、その死というものを前提とするならば、その利益はすべて、ちょうど氷でできたお城みたいなもんであると。ね。氷点下のときにはその水は安定してるかのように見えると。しかし、それが五度、10度、20度、100度になってしまうと、もうその水分すら残らず、すべて蒸発してしまうと。これがあなた方のこの現世のすべての価値であると。
  (1990年12月15日 金沢支部)


 わたしたちは、健康でいられるうちは、自分の死のことなど考えもせず、この世界で煩悩の対象を追い求めて生きています。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識をフルに働かせ、一瞬一瞬の快楽を味わうために奔走しています。「一度の人生、楽しめるだけ楽しまなければ損」と言わんばかりです。

 ところで、皆さんは次の歌をご存じでしょうか。
 「露と落ち 露と消えにしわが身かな 浪速(なにわ)のことも夢のまた夢」
 これは、一介の庶民から天下人にまで上り詰めた、豊臣秀吉の辞世の歌です。彼は、当時の人間が考え得る限りの栄耀栄華を極めました。しかし、死を前に歌われた歌は、何とももの悲しい、大変ニヒリスティック(虚無的)な内容です。
 そのほかにも、歴史上の多くの人たちが、死に際して苦悶する思いを吐露したり、辞世の詩句を歌ったりしています。
 これらを見て、皆さんは何を感じられるでしょうか。わたしたちは、普通、例えば豊臣秀吉が味わった煩悩的な満足感以上の満足感を、味わうことはできません。天下を手中に収めた秀吉でさえ、最期のときには「空しさ」しか感じなかったのです。
 わたしたちは、これらの先達から大切なものを学ばなくてはなりません。それは、いかに煩悩を満足させたとしても、いかに現世で成功を収めたとしても、その喜びや満足感は、死に際して何の心の支えにもならないということです。煩悩に翻弄された人生を振り返ったとき、それははかなきものであり、夢のまた夢にすぎなかったということを、死のときに思い知らされるのです。


   ◆歴史上の有名人が遺した“いまわ”の歌・言葉


◆つひにゆく道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを(在原業平)
     
◆定めなき浮世にて候へば、一日さきは知らざることに候(真田幸村)

◆「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も生きたいわ!」(徳富蘆花)

◆「もう、ダメだ」(ルイ・パストゥール)

◆旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(松尾芭蕉)

◆四十九年一睡の夢 一期の栄華一杯の酒(上杉謙信)

◆人間五十年、化天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか。(織田信長)

◆ああ、天は何が為我を生みしか(上田秋成)

◆鎧戸を開けなさい。光を……もっと光を!(ヨーハン・ヴォルフガング・ゲーテ)

◆命はおしまいだ……息をするのが苦しい。何かがぼくを粉砕する……(アレクサンドル・プーシキン)

 (『ヴァジラヤーナ・サッチャ』NO.3より抜粋)

◆「自殺」は大きな罪

 最近は、あちらこちらで「自殺」という言葉が聞かれます。いじめによる自殺、不景気の中、将来を悲観しての自殺、贈収賄によって社会に叩かれた揚げ句の自殺……。安楽死の本が飛ぶように売れ、インターネットにまで自殺のテクニックが紹介される時代−−精神的な荒廃は、今や行き着くところまで来てしまったようです。
 では、真理では、「自殺」 についてどのように説いているのでしょうか。
 チベットの偉大な成就者であったミラレーパが、まだグル・マルパの与える過酷な試練の中に身を置いていたころ、精神的に限界まで追い詰められ、自殺衝動に駆られたことがありました。ミラレーパが、まさに自殺をしようとしたそのとき、先達のゴクトゥン・チュードルが止めに入り、次のようにミラレーパを諭したのです。
「立派で偉大な魔術師よ、そうではない。サキャ神賢の最も秘密の教えによると、わたしたち各々の器官と感覚は、生来的には神のものと同じなのだ。もしも時が来る前に死ぬと、神を殺すという罪を犯すことになる。だから自殺は大きな罪なのだ。スートラの顕教の伝統では、自分自身の生命を断つことほど大きな罪はないという。お前はこのことを知っているのだから、自殺しようなどという考えは捨てるんだ」     (『ミラレーバの生涯』)
 このように、「自殺」 は、自分自身に宿っている神の要素、つまり「真理勝者の種子」や「如来蔵」といわれているものを傷つけることになるため、大変大きな罪となるのです。
 さらに、自殺した場合は、そこで死に対する愛着を生じさせることになります。そのため、次の生でも自殺するカルマを持つことになるのです。
 簡単に死を選んでしまう、現代の多くの人たち−−。
 彼らの“無智から来る愚行”に早く歯止めをかけるためにも、わたしたちは、全力で真理の法則をこの世に広めなければなりません。

 ★★★
(質問者F)それでは、自殺とか、そういう人は、次に生まれ変わるときには不幸になるということですか。
(尊師)そうだね、一般的にオウム真理数では、もったいないという考え方を持ちます。なぜならば、人間としての人生がまだ残っていると。その場合、その残っている人生を自分なりに全力で努力すれば、よりいい綽果が出るのに、そこで努力を断念してしまった場合どうなるのかと。今までの自分白身の心の働きによって輪廻転生を繰り返しわけですから、もったいないよね。わかるかな。(『麻原彰晃のせ界』PART20)

 ★★★
 だからあなた方も、わたしは、例えば今日から三年間善行を実践して、その後自殺しようなんていうことは、絶対に考えないように。いいね。
(89年4月23日 世田谷道場)

 

 ◆未曾有の詐欺師!マーラ

 皆さんは、例えば結婚詐欺などの“詐欺行為”に引っかかった人に対して、どのように思うでしょうか。
 「かわいそう」「お気の毒に」「愚かとしか言いようがない」「欲が深いからそういう目に遭うんだ」「騙される方が悪い」……。
 しかし、実はこれらの言葉は、わたしたち自身に向けて発されるべきものなのです。なぜなら、わたしたちは、まさに今、全宇宙で最も巧妙な詐欺に引っ掛かっている最中だからです。

 皆さんは、自分自身がどんな詐欺に遭っているか、お気付きになりますか?

 ここで、一般に言う「詐欺師」の手口を考えてみましょう。
 詐欺師は、最初、大変な喜びを相手に与えます。そのときに、喜びが、その人にとってあたかも真実であるかのように演出します。そして、利益を相手から巻き上げるだけ巻き上げ、最後には相手を捨てるのです。その人は、一時的な喜びを得ることはできますが、それが詐欺とわかった途端、喜びも幻のごとく消え去り、後に来る悲嘆、後悔、憎しみ、大きな損失という、何重もの苦しみに打 ちひしがれることになるのです。
 わたしたちが、本当の意味で自分が詐欺に引っ掛かっていたと気付くのは、多くの場合「死」のときです。
 では、わたしたちに与えられた一時的な喜びとは何でしょう。それは、この世界にあるすべての煩悩的な喜びであり、快楽です。死のときに、これらを幻のごとく失ってしまうのです。
 では、詐欺師によって巻き上げられるものとは一体なんでしょう。それは、高い世界に転生するチャンス、六道から脱却するチャンス、そしてそれを可能にするグルとの縁、修行できる貴重な時間・場所などのことです。せっかく真理に出合っているのに、煩悩にかまけ、修行をおろそかにした人は、これら至上の宝を巻き上げられてしまうことになります。
 では、わたしたちを詐欺にかけている者とは一体だれでしょう。それこそ、愛欲界の王マーラ(破滅天)なのです。

 「しまった!」−−死後のパルドにおいて、マーラの詐欺に気付いても、もう遅いのです。そこには、カルマにからめ取られ、再び苦しみの欲六界に引きずり込まれていく自分の姿があるのみです。
 「ひとときでもいい思いをさせてやったんだから、いいじゃないか」……冷ややかな笑みを浮かべた詐欺師マーラの“勝ち誇った声”が聞こえてきそうです。
 真理に巡り合っているにもかかわらず、煩悩の喜びに心奪われること−−その代償は、あまりにも大きいのです。

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●なぜわたしたちは死ぬのか

 わたしたちにとって、不都合極まりない死−−。
 では、わたしたちには、なぜ死があるのでしょうか。それは、この生、つまり生きているということ自体が、前生のカルマの結果として現われている現象だからなのです。前生積んだカルマが有限である限り、そのカルマの結果にも終わりがやってきます。このように、カルマが有限であるところから、わたしたちの死は、もともと運命付けられているのです。

 ★★★
 わたしたちが不死、永遠に死なない内体を持つことは不可能なのである。では、それはなぜなのかという問題に次は移らなければならない。それはわたしたちが死というもの、これを超えられない限界としては、わたしたちが生というプロセスをたどるからにほかならないと。ではなぜ生というものを根本とした場合、死という鈷果を招くのだろうかということについて考えなければならない。それは簡単である。つまり、わたしたちは生まれるときに前生のいろいろな経験の桟戌、カルマを集積したかたちで身体を形成する。ということはその因、つまりあるヴァイブレーションによって固定されたこの身体が、そのカルマへの終焉を迎えるとどうなるかというと、そこから当然解放されなければならないのである。それが死なのである。したがって、生まれた以上は死ぬんだ、ということをまず割り切る必要がある。
 (94年4月24日 名古屋支部)


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死の本当の恐怖

 ●死の恐怖−−生存(自分)の断滅
 死の恐怖は、だれもが味わわなければなりません。では、そのときの恐怖はどの程度のものなのでしょう。
 尊師は、バルドのヨーガをご修行中に、死を実体験されました。ご自身の肉体が、死のプロセスにおいて、自性(地・水・火・風のエレメント)に還元されていく過程で経験された激しい恐怖を、次のように語っておられます。

★★★
 最後に、息が風のエレメントに分解される。このときは、呼吸しづらくなってしまって、息昔しい。呼吸したい。呼吸して生き続けたい。そういう生命に対する抑え難い執着が、一気に表面化する。愛している人と別れるのは嫌だ。死ぬのは怖い!すでに、肉体的な痛みや苦痛はないが、死ぬことに対するひどい恐怖を感じるのは決して避けられない。わたしはそれを経験した。嫌だと思った。でも、わたしの気持ちなどにはお溝いなしに、死ぬための手続きは進んでいってしまった。魂は、青緑色を見ている。呼吸が少しせわしくなったかと思うと、最期に長い息を吐き出す。……そして、すべてが終了した。こうやってわたしは死んだ。
         (『生死を超える』)

 わたしたちの真我がこの世界で最もとらわれているもの −−それは「自分」という存在、言い換えれば「この世での生存」、つまり「命」と言ってもいいでしょう。「命あっての物種」 ということわざもあるとおり、わたしたちが執着していて、最後まで残るのが「命」なのです。この世界での外的な喜びは、たとえそれをすべて失ったとしても、生きて頑張りさえすれば、再び手に入れることが可能です。そこには、一縷(いちる)の希望があります。しかし、死んでしまっては、すべての可能性が完全に断たれてしまうのです。
 尊師も、「自分が最も大切」というのは、まさに真実であると説かれています。これは仏典にも同様にうたわれています。

 ★★★
 つまり、自分自身よりも大切な者はいないということだ。自分に比べたら、恋人も大切でない、親も大切でない、子供も大切ではないんだね。
「いや、わたしはわたしより子供の方が大切です」「いや、わたしは自分より恋人の方が大切です」と、言う人がいるかもしれない。しかし、それは真実ではない。なぜ真実でないのか?
 例えば、独房に放り込まれて精神のバランスを崩されたとしよう。あるいは、中国、ソ連でやっていることなんだけれども、拘留して、甘い物を徹底的に食べさせる。そうすると、精神のバランスがどんどん崩れてくるんだね。そういう状態では、もう夫も要らない、子供も要らない、鼻も要らない、という気持ちに必ずなるんだそうだ。
 言い換えれば、それらの人々は自分より遠い、というわけだな。自分よりすべては遠いんだよ。自分が最もかわいい、自分が最も大物なんだね。
    (『マハーヤーナ・スートラ』)

 しかし死においては、この大切な「自分」という存在がこの世から消滅してしまうのです。とらわれが強いほど、引き離されるときの苦しみは大きくなります。この世で最もとらわれている「自分」を手放さなければならなくなったときに、真我が経験しなければならない苦しみは、想像を絶するものがあるのです。


 ●低い世界に生まれ変わる恐怖

 しかし、死の恐怖は、単にこれだけではありません。わたしたちは、はるかな過去から輪廻転生を繰り返していますが、その間、無数の死を経験しています。そして、わたしたちの深い意識では、過去の経験−−つまり、何度も何度も死後に落下し、悪趣流転を繰り返してきた経験−−を覚えているのです。
 このように、死の恐怖につながって、低い世界・闇の世界に生まれ変わる恐怖も、潜在的に感じているのです。

 ★★★
 仏陀釈迦牟尼も阿含経典の中で、あるいは南伝大蔵経の中で、最も魂が気を付けなければならないのは、死の大軍であると言ってらっしゃる。この死の大軍とはどういうことかというと、わたしたちが気付かないうちに、わたしたちは老い、病み、そして死ぬんだということ。そしてその死を瞬間として、今人間の生というのは下から四番日で、そんなに悪い生ではない。しかし、道を誤ると、地獄・動物・餓鬼といった三つの悪趣に生まれ変わってしまう。そして、一度、その三つの悪趣に生まれ変わると、なかなかそこから抜け出せないと。これが仏教である。これが真理である。そして、これは在家信徒の、あるいはヒナヤーナの実践の 根本をなすものである。
  (90年11月23日 杉並遺場)

 ★★★
 人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ。これは、凡夫にとっては苦痛である。なぜならば、彼らが消耗した善の果報がそこで終わり、そして五蘊に蓄えられた、つまり形状−容姿・感覚・表象・意志の遂行・識別に蓄えられた悪業の果報が現象化するときだからである。修行者は、必ず光に包まれ、高い世界へ転生する。しかし、凡夫は、その瞬間暗黒となり、悪趣へ落ちなければならない。
(91年5月23日 富士山総本部)

 ★★★
 そして、先程は、心が明るくなれば高いせ界へ生まれ変わると、心が暗くなれば低い世界へ生まれ変わるという話をしたよね。そして心の本質には、その暗闇を怖がる本質があると。それは、前生において落ちた経験があるからであると。ね、これも異論があるかもしれない。しかしそれについては、こう断言できるとわたしは思うね。「もし、闇についての恐怖という経験がなければ、その闇イコール苦悩という経験がなければ、闇に入ったとしても何の恐怖もないはずである」と。どうだこれは。つまり、以前に経験がないものに対しては、恐怖もなければ喜びもないと。どうだ。
 (89年11月8日 富士山総本部)

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死に備えて−−二つの道

 ●布施・持戒で天界へ転生を

 わたしたちが、「死」に対して備える場合、大きく分けて二つの道があります。一つは、人間界以上、特に戯れ堕落天への転生を目指す道、もう一つは、死のない世界、つまりニルヴァーナやマハー・ニルヴァーナを目指す道です。
 天の世界そのものは、まだ苦界に属していますが、六道の中では苦しみが最も少なく喜び多き世界です。わたしたちが真理の実践を行なわず、煩悩的な喜びを追いかけて悪趣へ落ちるよりは、今生は楽が少なくても、天へ至る種子を身に付け、来世長きにわたり天の世界で享楽を味わう方が、わたしたちにとって大きな利益であることは明らかです。
 天の世界を目指す場合、布施の実践・持戒の実践が大切になってきます。

 ★★★
 人は必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられないと、わたしはよく近ごろ言う。
それはあなた方があまりにも生きるということに対して幻影を抱いているからである。それは、死というものを何度も何度も深く考えてこそ、初めてその生きるということが無意味なものであると、そして本当は生きるとか死ぬとかいうことなく、ひたすら善業を積み、功徳を積み、そしてひたすら持戒を守り、もっともっと長い高いせ界を意識するべきであると。
 例えば、八十年間、前生の功徳により豊かな生活をしたとして、死んだ後、悪趣である地獄・動物・餓鬼に生まれ変わるよりは、今生でそこそこ食べていけりゃいいじゃないかと。普通に生きていけりゃいいじゃないかと。あとはひたすら功徳を積み、身・ロ・意の善業を積み、そして来世、憤怒天、あるいは戯忘天界へ生まれ変わるという方が、長い長い魂の転生から考えたら、よっぽど得であると考えなければならない。
 (90年12月16日 名古屋支部)

 さらに、これらの実践の上に、今生、教学・瞑想をしっかりと行ない、「未来際にわたり、決して真理から離れることがありませんように」といった発願を行なっておくならば、天界に転生しても、単に享楽に埋没してしまうことなく、真理に出合い、実践し、さらに高い天界へと転生することができます。このようなかたちで、大変長きにわたって、長寿と楽の多い世界で安らぐことができるのです。

●瞑想で死の世界を予め経験

★★★
 では何をどうするんだ。その死のために準備をすればいいんだと。
 じゃ、何を準備するんだと。それはまずしっかりとバルドを経験すること。そのためにはしっかりと瞑想修行を行なうこと。そして、これからいつ死んでもいいような心の準備をすること。
 じゃ、何をどうすればいいんだと。そのためには、この現世の執着を切ると。なぜならば、現世の執着があろうとなかろうと死ぬんだということだね。これははっきりしていると。したがって、いいか、現世の執着がなくてもわたしのように生きていけるんだ。だとするならば、現世の執着がなくてもいいじゃないかと。逆に執着があればそこでエネルギーを漏らし、そしてそれによって、本当に自分がやらなければならない使命も見えなくなると。本当に自分が生きなければならない、その生き様も見えなくなると。
 したがって、現世の執着を切り、そして、できるだけ多くの徳を頼み、高い世界へ至る準備をすると。そして、瞑想修行をしっかり行ない、できたらバルドを自由に行き来できるようにすると。そしてそのバルドでの経験は、君たちが死後、経験する世界と同じだ。
 (93年3月21日 杉並道場)

 「功徳を積み、戒を守り、高い世界を志向する」−−このように、高い世界へ転生する種子を植えておくことは、死に備える上で大切なことです。
 しかし、わたしたちの心の中には、けがれもたくさんあります。バルドではどのようなカルマが噴き出してくるかわかりません。そこで、死後、戸惑うことがないように、できるなら生きているうちに、瞑想で死後の世界を経験しておくことが大切です。
 オウム真理教では、様々な瞑想技術がグルから伝授されています。これら秘儀瞑想を修習することによって、必ずバルドの体験をすることができるようになります。
 あらかじめバルドを経験しておくと、本番の死のときに慌てることなく、高い世界の光やエネルギー、ヴィジョンを選ぶことで、良い転生を確実なものにすることができるのです。


●グルに高い世界へ導いていただく

★★★
 死後の世界を知っているのは、今のところオウム真理教において、と言うよりも日本において、正悟師以上以外、本当の意味で知っている人はいない。だとするならば、確信を持ち、付いてきなさい。いいね。
 君たちの死後、わたしが君たちのバルドの案内をし、そして君たちをきちんと弁護し、君たちが法の実践を一生懸命行なったならば、必ずや高い世界へ導こう。いいね。
(90年10月27日 名古屋支部)

 日ごろから、グルに対する帰依をしっかり実践しているならば、死後、グルがバルドに現われてくださり、わたしたちの魂を高い世界へと導いてくださいます。そのためには、一瞬一瞬、自分にできる限界の真理の実践を行なうことが大切です。日ごろ、どれだけグルを意識できているかが、バルドで高い世界へ導いていただくための条件となるのです。

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●愛欲界を出離し、不死へ

 「死」 に対して備えるもう一つの方法は、完全に 「死」を克服する道です。
 真理では、「死」を超えて「不死」に至るための方法が、いろいろな角度から説かれています。というよりも、「不死」に至る方法は、真理の法則の中心に位置づけられていると言っても過言ではないのです。

★★★
 これは、わたしの修行動機でもあるし、あるいはいにしえの仏陀方の修行に入られた動機でもある。それは、この無常の世界を出離したいと。そして、本当に壊れない、安定した、不変のものを勝ち取りたいと。あるいは、この病多き肉体、老い、死というものを超越した、ビビッドな、そして永続性のある意識状態に到達したいと。つまり、不死に到達したいと願うこと。そして、その実践、そして実際にその到達。これがオウム真理教の教えである。
 そして、これは今組み立てられている、オウム真理教の修行システムを、確実に一歩一歩、歩を速めていけば到達できる、だれにでも手の届く世界なのだということを、シャモン諸君は理解しなければならない。
 では一体、何をなせばこの不死に到達するのか、あるいは何をなせば死に到達するのかということについて考えなければならない。
 この不死と死という点については、死についてまず語った方が早いから、死について語ろう。
 この形成されているわたしたちの肉体、あるいはイメージ、あるいは感覚、意識、あるいは意志といった、この五つの集まり、この集よりの存在こそが、わたしたちを死に至らしめる因である。そして、この五取蘊を完全に止滅することこそ、わたしたちが不死に到達するただ一つの道である。
 そこには、純粋な、広大な、光り輝く真我しか存在しない。そして、それをマハー・ニルヴァーナと呼ぼう。あるいは、大いなる空性と呼ぼうと。これが約束事なんだ。そこでの至福の状態 そこでの平安の状態、そこでの絶対的な安定の状態というものは、そこへ到達した者以外、理解することはできない。
(1990年8月2日 阿蘇・シャンバラ精舎)

 「不死」に至るためには、解脱して、コーザル世界に到達し、意識の連続を経験するか、離解脱によって三グナの干渉を完全にカットし、真我の独存位に至らなければなりません。そのために真理では、八正道・五根五力・七覚支・四念処・四正断・四如意足といった七科三十七道品や、六つの極限、タントラの七つのプロセスなど、たくさんの方法が用意されています。
 通常、こうした解脱や離解脱を目指す実践は、出家をした方が進めやすいのは言うまでもありません。しかし、その中には、在家でも解脱に至ることができるように説かれている教えもあります。その一つが、「六つの極限」です。

 @布施(財施・真理施・安心施)
 A持戒(不殺生・不倫盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不愛著・不邪悪心・不迷妄・不飲酒)
 B忍辱(カルマ落としにひたすら耐え、真理の実践を行ない続ける)
 C精進(善法を増大させ、悪法を断じる)
 D禅定 (四つの静慮を経験する)
 E智慧(光に到達し、すべてを知る)

この六つのプロセスを、下から順に固めていくことによって、必ずや「不死」に到達することができるのです。

 

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◆不死とは

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 そしてわたしたちがこの五つ目の識別に到達するならば、わたしたちは輪廻転生のありようをすべて理解することができるわけだ。つまり連続した意織状態でいることができる。で、この連続した意識状態に到達すると、わたしたちは結局、過去世から今生、来世へと連綿と続くその意識の流れを理解することができるから、それをもって不死ということができるんだね。ところでこの識別までをシャットアウトしてしまい、そして本質的に喜び、本質的に自由、本質的に歓喜の状態を得ることが、ヨーガや仏教の最終段階である離解脱と言っているんだよ。
(『ノストラダムス秘密の大予言』 第9回)

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 では、不死とは何であろうか。不死とは、五取蘊を超越し、その後で出てくる最終の意識状態ということができる。では、なぜこれを不死というのだろうかと。それは、意識が連続しているからである。
 例えば、君たちが多くの食べ物を食べると。眠たくなると。あるいは、邪淫を行なうと。眠たくなると。そして、実際寝ると。そのときは、ほとんど覚えていないと。一種の気絶状態であると。これが死である。この、短い時間の状態ではなく、長い時間の状態、そしてそこでのカルマの入れ替えが起き、新しい五蘊を形成する過程、これが死と誕生である。
 そして、不死に到達した者は、この死、そして生というものをはっきりと覚え、自由にコントロールすることができる。そして、最終的にはこの五つの取蘊を止滅させ、そして永遠に生じない、永遠に滅しない、永遠に増えない、永遠に減らない、永遠に綺麗とも言えない、永遠にけがれているとも言えない状態に到達すると。そして、これが『般若心経』の空のすべてである。
(1990年8月2日 阿蘇・シャンバラ精舎)

 五つのとらわれの集積の中で、五番目の識別だけが「死」の影響を受けることがありません。死・生を通して連続しているのです。ですから、修行によって識別に到達するならば、わたしたちの意識は永遠に途絶えることがないのです。この状態を、真理では「不死」といっています。ちなみに、識別は、三界ではコーザル世界(超潜在意識)に対応します。
 さらに、この識別すら捨断することによって完全に三界の生存から離れ、真我の独存位に到達することが、わたしたちの修行の最終目的なのです。


【※五つのとらわれの集積(五蘊)=
形状−容姿・感覚・表象・経験の構成・識別】

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●必死で死の準備を

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 まず自分自身の死、これを直観するべきであると。つまり、「たとえ第三次せ界大戦が起きようと起きまいと」ということをわたしは以前から言っていたわけだが、まあ起きるとして、死ぬ確率はかなり高いと。起きないとしてもいずれ死ぬと。この二つの条件を考えるならば、死を直視し、そして死の後、どのようなかたちでわたしたちが輪廻転生を行なえばいいのかについて検討に入り、努力する時期がやってきた。そして、死の準備のためには数週間や数時間ではなかなか間に合わないと。自分自身の本当に決定的な輪廻転生を考えるならば、それは明らかに今から準備をするべきである。
(1992年9月27日 富士山総本部)

★★★
 つまり何を言いたいかというと、自分自身が今まで頼み上げてきたカルマ、これは善業にしろそうだし、悪業にしろそうだし、それをしっかりと絶えず数える必要があると。そして、例えば
「オウム真理教の信徒」という名ばかりではなく、しっかりと六つの極限、徹底した六つの極限の実践を行なうことにより、死の準備を始めるべきだというのが、わたしのアドバイスだ。
  (1993年2月20日 横浜支部)

 高い世界への転生を目指すにしろ、解脱しニルヴァーナやマハー・ニルヴァーナを目指すにしろ、死を克服するためには多くの時間が必要です。長きにわたる輪廻転生で身に付けてきた、無数ともいえる煩悩を弱め、消滅させていかなければなりません。あるいは、意識をこの苦界から抜け出させる特殊な技法を何度も何度も訓練し、身に付けてしまわなければならないのです。
 わたしたちは今生、この上ない幸運に恵まれています。それは、真理と巡り合い、最高のグル方と巡り合っているからです。真理の法則は、わたしたちに上向への道筋を明らかにしてくれます。また、グル方は、エンパワーメント等によって、わたしたちのカルマを瞬時に浄化し、高い世界に転生できる種子や解脱の種子を植え付け、実際にそれらを与えてくださるのです。
 しかし、このチャンスを生かすか殺すかは、わたしたちの心一つです。これだけのチャンスに恵まれた今生を大切にし、一時一時を無駄にせず、真理の実践に邁進しようではありませんか。

 


 

◆「ネズミ取り器」の中のネズミ

 皆さんは、「ネズミ取り器」というのをご存じでしょうか。この「ネズミ取り器」の入り口を思い出してください。外から入ることは容易ですが、中から外に出ることはできない仕組みになっています。そして、中にエサを入れておくと、ネズミは中に入り込み、エサにありつく代わりに、狭い檻の中に閉じ込められることになるのです。

 愛欲界の構造は、この「ネズミ取り器」と同じです。わたしたちは、欲望の対象を愛欲界に見いだし、それに飛びつくことで永遠に愛欲界に閉じ込められ、六道輪廻に苦しんでいます。愛欲界に飛び込むのは簡単ですが、そこから出るのは至難の業なのです。
 しかし、わたしたちは今生は大変な幸運に恵まれています。それは、グル方のお力によって「ネズミ取り器(愛欲界)」の入り口が押し開かれているからです。ところが、わたしたちは無智のために、「ネズミ取り器」の中に置かれたエサ(愛欲の対象)にとらわれ、なかなか外へ出ようとしません。

 皆さんはこの光景をどう思われるでしょうか。入り口が開かれている期間は、今生だけの短い時間なのです。このチャンスを逃せば、再び入り口は閉ざされ、もう外には出られないかもしれません。今生は、思い切ってエサの喜びを捨断し、グル方の導きに従って外へ出ようではありせんか。そこには、本当に自由な世界が待っているのですから−−。

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